「お嬢様、ようこそ!お姿を拝見できて嬉しいです!」
久しぶりに訪れたムラーノ工房。
エカテリーナが馬車から降りるやいなや、駆け寄ってきたレフが大きな声で言った。
「お久しぶりね、レフ。ずいぶんお元気そうで、何よりですわ」
エカテリーナは笑って言う。
真面目でおとなしいレフ君がこんなに元気に声をかけてくるなんて、意外だったわ。
会えて嬉しいじゃなくて姿を見られて嬉しいっていう言い回しがなんだか不思議だけど、ともあれレフ君も、日々高まる名声で自信をつけてきたのかな。君はまぎれもない天才芸術家なんだから、どんどん自信を持ってくれていいと思うよ!
などとエカテリーナが思う通り、今やレフは二十二歳という若さにして、皇都で最もその作品を切望されている職人と言われているようだ。
皇帝皇后両陛下が愛用する美しく画期的な筆記具、宝石のようなガラスペンを求めて、有力貴族や富裕層がユールノヴァ公爵家に接触してくる動きは今も続いている。
ムラーノ工房の経営と営業を担うユールノヴァ公爵家商業部門はこの機を逃さず、殺到する注文をガラスペンの作り方を習得した他の職人たちに割り振っていて、工房はますます活況を呈していた。
ユールマグナとの争いに絡んで、味方にしたい相手、味方と見せたい相手との繋がりを作る一助にも、なっているだろう。
とはいえ公爵家に接触してくるほどの身分や資金力を有するレベルの好事家は、他の職人ではなく皇帝陛下のガラスペンを手がけたレフが制作する特注品を、求めている。他の誰かに先駆けて、他の誰より豪華なものを作らせたい。接触の目的は、抜け駆けである。
しかし彼らの願いも今は虚しく、レフの制作リストは現在のところ、ユールセイン公爵家、先帝ヴァレンティン、太陽神殿の大神官などの最上級顧客だけで占められているのだった。
真面目なレフは日々制作に励んでいるが、そういう顧客の注文は難しいものばかりで、リクエストされた意匠について調べるところから始まったりする。ここは、知りたいことがあれば検索窓にキーワードを入れてエンターキーを叩けばいい世界ではない。皇后のガラスペンを制作した時には、要望された蛇喰鳥をデザインに取り入れるために、レフは皇城で飼育されている個体をスケッチしに通ったものだった。
最初にエカテリーナがアレクセイへの贈り物としてガラスペンを作ってもらった時には、あまりに迅速に出来上がって驚いたものだが、それはエカテリーナが無茶振りはしない客だったからこそだったようだ。
しかしその稀少性がますます、好事家の欲望を掻き立てているらしい。
ただ、レフの才能はガラスペンに留まらないので、いずれはもっとのびのびと創作活動できるようにしてあげたい、とエカテリーナは思い始めている。
そんなエカテリーナの思いを知るはずもなく、レフは我に返ったようだった。
「申し訳ありません。ご親族の学者様がいらしているというのに、失礼してしまって」
エカテリーナに続いて、アイザックが馬車から降りてきている。
レフの恐縮した言葉は耳に届いたのかどうか、にこ、と笑ってアイザックは尋ねた。
「やあ。君が顕微鏡を作ってくれた職人かな?」
「あ、いえ、それは僕では」
気さくに尋ねられて、レフはあわてて何度も首を横に振る。
「大叔父様、こちらはガラスペンを作ってくれた職人ですの。昨夜ご覧になったお兄様のペンや、大叔父様に差し上げた透明のペンなどは、レフの作品ですのよ」
エカテリーナがレフに助け舟を出すと、アイザックは目を輝かせた。
「ああ!あれも素晴らしかった。あの細さであの強度を出せるのが不思議でね。何か工夫があるという話だったけど、やはり温度かい?高温でガラスを熱することができる炉があるのかな。その後、なるべく迅速に冷却できれば強度が出そうだ」
無邪気に問われて、レフが息を呑む。
「お解りになるんですね、学者様はやっぱりすごいです」
「炉に興味があるなあ。見せてくれるかい」
「もちろんです。エカテリーナ様のご親族でいらっしゃいますから、いくらでも」
そのまま工房見学会に突入しそうな二人を、エカテリーナが苦笑して止めた。
「大叔父様、まずは顕微鏡を作ってくれた職人にお会いになってくださいまし」
工房内に足を踏み入れると、今日もムラーノ工房は活気に満ちていて、職人たちはエカテリーナを歓迎してくれた。といっても、皆忙しげに働いていて、口々に挨拶してくれただけだが。お嬢様がそれを許してくれるのを、もう職人たちは皆知っている。
エカテリーナと共に、アイザックも職人たちの挨拶に気さくに応じていた。
そして顕微鏡を作った職人、エゴール・トマが使っている工房の一角に行って、両者を引き合わせてみると、いきなり話が盛り上がって止まらない状態になった。
トマは真面目な職人だが、ちょっとふてぶてしいところがあり、公爵家の一員であり高名な学者である御方に対しても遠慮なくものを言う。それを咎めるアイザックではないので、ざっくばらんに会話が弾む。トマの顕微鏡製作についての話をアイザックはたちどころに理解して、あれは?これは?と質問攻めにするのだが、普段は工房で独りレンズを工夫しているトマは顕微鏡について語れるのが嬉しいようで、いそいそと答えてゆくのだった。
なんか、話がめっちゃディープになっていくような。
アイザック大叔父様、虹石以外の鉱物を顕微鏡で見ること、諦めてなかったんだ。大叔父様の岩石に作用する魔力で、石をかなり薄くスライスすることはできると。私も土の魔力で土を動かせるけど、スライスできるって不思議ー。でも光を透過しないものは、反射鏡付き顕微鏡で見てもあまり意味がないのでは。
トマさん顕微鏡の形状で対応って、大胆な提案ですね。前世にもそういうものはあったかどうか……大叔父様、今説明しているそれ、確か前世の偏光に当たるものでは?いやすごくあやふやな記憶しかなくて判定できませんけれども。
などと思ってはいるが、エカテリーナは内心の感想を口に出す機会もなく、テニスの試合を観戦する観客のように、トマからアイザックへアイザックからトマへ、目まぐるしく話し手が変わるにつれて視線を行ったり来たりさせるばかりだ。
そんなエカテリーナに、レフが言った。
「お嬢様……もし、もしできればなんですが……お姿を、スケッチさせていただけませんか」
エカテリーナは目を丸くする。
が、すぐに理解した。
そうか、きっとレフ君は、新作ガラスペンのデザインに女神とか精霊とか、女性の姿のものをリクエストされているんだね。イメージを膨らませるための、参考資料のひとつっていうところなんだろう。そういえば今日会った時、姿を見ることができて嬉しいと言っていたのは、そういう気持ちがぽろっと出たのかもしれないなあ。
だから、エカテリーナは微笑んで言う。
「もちろん、良くてよ」
「ありがとうございます!すみません、少しだけ……すぐ終わりますから!仕上げのイメージを掴みたいだけですから!」
と言いつつレフのスケッチは、微妙に角度を変えたり手などのパーツを拡大して描いたりして何枚も続き、なんか前にもこんなことがあったような気がする……と思いながらエカテリーナは言われるがままにポーズをとってそれに付き合った。
そうしている間に、トマがアイザックに何か耳打ちしていたのだが、もちろんエカテリーナは気付いていない。
ようやくスケッチが終わったところへ、アイザックがこう言い出した。
「あの炉の構造が気になってね、調べてみたいんだ。工房の仕事が終わって炉の火を落とすまで、ここに残っていたい。エカテリーナは先に帰ってくれるかい」
「大叔父様、それは……」
工房の職人たちに迷惑ではなかろうか、とエカテリーナはためらったが、トマが口を挟んできた。
「お嬢様。先生はガラスの着色のこともお詳しいようですから、ここにおられる間、教えていただければありがたいですよ」
うーん……それは確かに。
『天上の青』の染料を発見したのは大叔父様だし、ユールノヴァ領の花火が色とりどりだったのは大叔父様の研究の成果だそうだし、着色にはすごく知見があるに違いない。
「工房のお仕事が終わってからお調べになるのでは、ずいぶん遅くなりましょう。長旅を終えたばかりでいらっしゃいますのに……お身体が案じられますわ」
「興味深いものに触れていたほうが元気が出るよ」
「俺とレフとで、お帰りになるまでちゃんとお世話させていただきます」
アイザックに笑顔で言われ、トマにも言われて、エカテリーナは折れた。なんといっても、アイザックをムラーノ工房に連れてきたのは歓迎の一環であって、顕微鏡やムラーノ親方の炉に興味を持って楽しく時を過ごしてほしいと思ってのことだったのだから。
狙いが大当たりしたのは良かったけど、でも大叔父様も過労死が心配な人なのでは!すぐ寝食忘れちゃいそうなタイプ!天才ってそういうものなのかもしれませんが、過労死ダメ絶対!
「それでは、後ほどお食事を運ばせますわ。しっかりと召し上がってくださいましね。そして、あまり遅くはならないでくださいまし」
「うん、ありがとう」
私はいったん帰って公爵邸の皆に伝えて、食事をレフ君とトマさんの分も用意してもらって……。
と、段取りを考えているエカテリーナは、先ほどのレフの言葉を聞き流して忘れてしまっている。
『仕上げのイメージを掴みたいだけですから!』
それは、何の仕上げなのか。
尋ねることもなく、エカテリーナは帰宅していったのだった。