335. 舞踏会の終わり

「お兄様!」


扉の向こうから現れたアレクセイに、エカテリーナは顔を輝かせた。

アレクセイは妹に駆け寄るや、腕の中にさらい込んでひしと抱き締める。


「エカテリーナ……!可哀想に、さぞ恐ろしかっただろう。こんなところにいたとは、凍えていたのではないか」


そんな兄に抱擁を返しながら、エカテリーナはほっと安堵の息をついていた。兄が来てくれれば、もう安心だ。


「わたくしは大丈夫ですわ。ミハイル様が上衣をお貸しくださいましたの」


言いながら、ちらとミハイルに視線を投げる。


その時に見た彼の表情――なんとも澄明な諦観に満ちているというか、もはや悟りでも開いていそうな、菩薩めいた顔――に不思議な思いを抱いたものの。

いや違うわ、菩薩というのは悟りを開くために修行中の人を意味するサンスクリット語が語源で、まだ悟りを開いていないんだった。

という、無駄に正しい豆知識を思い出したことに気を取られて、不思議な思いをさらっと忘れてしまったエカテリーナであった。




「エカテリーナ様、これを」


アレクセイから少し遅れて現れたフローラが、ショールを差し出す。クロークに預けていたものを引き取ってきてくれたらしい。


「まあフローラ様、なんてありがたいこと……。恐れ入りますわ、少しお待ちくださいましね」


フローラちゃんなんて気が利くんだ……と感動しつつ、エカテリーナはまずミハイルが貸してくれた上衣を脱いだ。


「ミハイル様、ありがとう存じました。お返しいたしますわ」


渡すのではなく、ミハイルの後ろに上衣を広げて、袖を通すのを待つ。


この世界では、こういう服の脱ぎ着の手伝いは従僕などの役目なので、相手が皇子といえど公爵令嬢がすることではないという感覚がある。けれど今は、ミハイルへの感謝を込めて、手ずから着せ掛けてあげたかった。


「ありがとう……悪いね」


その配慮を受け取ったようで、ミハイルは上衣に袖を通した。着て、ほのかに微笑んだのは、上衣に残る温もりを感じたのかもしれない。


うんうん、やっぱり本当は寒かったんだろうね。それなのに上衣を貸してくれて、ほんとにありがとう!


エカテリーナはミハイルににっこり笑いかける。


が、そんなエカテリーナに後ろからフローラが明るい声を上げて抱きついた。


「エカテリーナ様、どうぞ」

「まあ!」


抱きついたのではなく、肩にショールを掛けてくれたのだった。絵面としては、抱きついた状態で間違いなかったりするが。


「お風邪をひかないように、気をつけてください」

「恐れ入りますわ」


と言う声に笑いが混じってしまうエカテリーナである。いろいろ緊迫した先ほどとはうって変わって、女子同士の気楽なノリがありがたかった。とにかく、美少女のきゃっきゃうふふは癒しだ。


そんな女子二名の隣に立ち、アレクセイが重々しく言う。


「我が妹にお気遣いいただき感謝いたします。しかし、栄えある皇国のお世継ぎともあろうお方が衣服を分け合うとは。御身をおいといいただき、このようなところでお過ごしになりませぬよう」


あっそうか、とエカテリーナは気付いた。戸外へ出ないでロビーにいれば、さほど寒い思いはしなくて済んだんだわ。

でもあの時は走り出ないではいられなかったんですお兄様!皇子を責めないで!


「すまない。でも、僕自身は寒さなんて少しも感じなかったんだ。なぜだろうね」


少しも動じることなく、ミハイルは微笑んでいる。


え、そうなの。鍛えるとそんなに寒さに強くなるのかー。確かに、筋肉は基礎代謝を高めるから寒さを感じにくくなる、とか聞いたことはあったなあ。見た目はそんなにマッチョじゃないけど、皇子は本当にしっかり鍛えているんだね。偉いなあ。


と感心したエカテリーナだが、アレクセイとフローラがどことなくじっとりした視線でミハイルを見ているような気がして、内心でなんでだろうと首を傾げる。

そして、ふと気付いた。


「音楽が終わったようですわ」





ラストダンスが終われば、舞踏会は終わり。

会場からは拍手の音が漏れ聞こえてくる。もうすぐにも、会場から人々が流れ出てくるだろう。


顔を合わせないで済むよう、急いで帰る。それ一択だった。




四人で帰りながら、情報交換をする。それぞれが居ない間に何があったのか。


まずはミハイル。ラストダンスで駆け込んでくるまで、会場にいなかったのはなぜなのか。エカテリーナは、ユールマグナの策でどこかに留められているのかも、と想像していたわけだが。


「うん、あれは……」


何やら言いにくそうに顎を掻いたミハイルによると、舞踏会の終盤になって、立て続けに数人の女子からダンスを踊ってほしいとせがまれたのだそうだ。


「最初に申し込んできた子が、ちゃんとしたパートナーがいるようだったのに、その相手の目の前でどうしても踊ってほしいと言ってきて……どうだろうと思って断ったんだ。最初に断ったのに他の子とは踊るわけにはいかないから、ずっと断っていたけど、次々。だから、ラストダンスまで舞踏会場を離れていたんだ」

「そうでしたの……」


なるほど、学園の舞踏会でなら起こり得そうな、自然な状況だ。ユールマグナの策と想像したのは考えすぎだったか……と、エカテリーナは思いかけたが、ミハイルが言葉を続けた。


「でも今にして思うと、断っているのにあんなに女性から申し込んでくるのは不思議だし、最初の子も……」


そこでミハイルは言葉を切ったが、最初の女子に何か不審な点があったのだろう。

エカテリーナは内心で唸っていた。これがやはりミハイル不在の状況を作り出すための策だったとしたら、無理なく自然で省エネなやり方で狙い通りにやってのけた。ユールマグナの関与を証明するのも難しいだろう。敵ながらあっぱれだ。




エカテリーナからは、ミハイルに不在の間に起きた男子の暴言事件を話し、それからアレクセイに、舞踏会場を去った後にウラジーミルからダンスの申し込みを受けた時の詳細を話した。


最後にアレクセイに、エカテリーナとミハイルが脱出した後に何があったかを尋ねる。


「お前を強引にラストダンスに誘ったことについて、ユールノヴァ当主として正式にユールマグナに抗議を申し入れる、とウラジーミルに伝えた。そして、皇帝陛下にご報告申し上げるとも。不文律として、三大公爵家同士の婚姻は推奨されない。今回のような勝手な真似は、陛下はご不快に思われるだろう」


おお!さすがお兄様、三大公爵家当主としての正当な対応!よかった決闘とかの話になっていなくて。

皆の前で、皇帝陛下がご不快に思われるとまで言ってくれたなら、勝手なことを言う外野への抑止になりそう。


しかしそこで、アレクセイは憮然とした表情になった。


「……そう話したところでクローエルが追って来て、皆の帰宅が寮の門限に間に合わなくなるのでラストダンスを始めさせてほしいと懇願された。それで話を打ち切った」


寮の門限か……。

話の次元の違いに脳がバグりそうになるけど、切実よね。ちゃんとスケジュールを厳守する生徒会長、実務担当者として有能。


「最後にウラジーミルに、二度と妹に関わるなと伝えた。我が妹の名誉に傷をつける真似をしたなら、決して許さないと。

もし再び関わってくるようなことがあれば、すぐに私に伝えなさい。その時こそ私は、あらゆる手段でお前を守る。必ず」

「はい、お兄様。わたくしは、お兄様の仰せの通りにいたしますわ」


頷きながらも、改めてエカテリーナは不思議に思う。ウラジーミルのあの行動の狙いは、一体何だったのだろうと。

結局はユールマグナの失点になってしまった。


でも一番大きいのは、いろいろありつつもずっと友達としてウラジーミル君を心に置いていたお兄様が、今までにない声音で彼について語っていることだ。これではまるで彼は、自ら自分を追い込んだかのよう。


ユールマグナ側で動いているのは、色気美人のザミラだと思っていた。今夜起きたことに、ウラジーミルとザミラは、それぞれどう関わっているのだろう。




情報交換が終わってそれぞれが考え込み、四人は言葉少なに帰路を進んでいる。

と、ミハイルが口を開いた。


「学園の行事は、今年はもう大きなものはないけど……エカテリーナ、君の誕生日が年内だったね」

「はい、そういえばもうすぐですわ」


ちょっと強引ながら、明るい話題を出してくれたことに感謝しつつ、エカテリーナは頷く。


「盛大にお祝いするんだろうね。まだ先だけど、楽しい日になることを僕からも願うよ」

「ありがとう存じます。そうなるとよろしいですわ」


そう答えながらも、エカテリーナは自分の誕生日のことはほぼ忘れていたので、改めて考えてみた。


私の誕生日かあ。そんな盛大にお祝いはしないよね。お兄様の時なんて、私とフローラちゃんからのプレゼント以外は何もなしだったし。もしパーティーとかするとなると、公爵家の女主人は私なので、私が私の誕生祝いのパーティーを仕切ることになるのでは。うーん


一般的にはどうなんだろう。執事のグラハムさんに訊いてみようかなあ。




実はすでに周囲が着々とエカテリーナの誕生祝いの準備を進めているのだが、まだ気付いていない本人なのであった。

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