334. 星降る夜のラストダンス

無我夢中で、エカテリーナは駆けた。先をゆくミハイルの手を、命綱のように握りしめて。

絶体絶命の窮地からの、奇跡の大脱出だ。この機を逃すわけにはいかない。

その一心で、行き先など気にかける余裕もなく、エカテリーナはひたすらミハイルの背中を追っている。

皇子と公爵令嬢の前に、人々はすみやかに道を開けた。扉さえ、近付けば開け放たれた。

舞踏会場を出て、ロビーを駆け抜ける。クロークを備えたロビーには、舞踏会の終わりに備えるスタッフがいたのかもしれないが、人の姿に気付く余裕もない。

最後の扉は、ミハイルが押し開いた。

その向こうには、夜の闇と静寂が広がっている。

ミハイルと共に、エカテリーナはそこへ逃げ込んだ。

助かったー!

うわーん怖かったよー。

ようやく足を止めて、エカテリーナはしみじみと安堵する。

舞踏会の館のすぐ外のエントランスにいるだけだが、正面入り口の大きな扉をミハイルが閉めたので、大きな盾を背にして隠れているような安心感があった。そもそも、ここまで誰かが追ってくることはないだろう。

「しばらくここに居よう。あまり離れてしまうと、アレクセイが心配するだろうし……ここなら、舞踏会が終わった後に合流できるから」

「はい、仰せの、通りかと」

動揺したせいか、たいした距離を走ったわけでもないのにひどく息が切れていた。晩秋の夜気の冷たさが、今は心地良い。

「エカテリーナ、大丈夫?」

「はい……」

まだ手を握り合わせたままのミハイルが尋ねてきて、エカテリーナはうなずいた。

ミハイルのほうは、息を乱してもいない。日々鍛えているせいだろう、さすがだ。

「ミハイル様……ありがとう存じます。本当に、助かりましたわ」

どちらへ進んでも地獄の状況からの、大脱出。起死回生。九死に一生。

地獄に仏。救世主!

ありがとう、皇子!

内心で、ミハイルを拝むエカテリーナである。

「あ、うん……役に立てたなら良かった……」

ミハイルは笑ったが、何やら歯切れが悪かった。

「でも実は、状況がよくわかっていなかったんだ。ただ、ラストダンスなのにウラジーミルが君と踊ろうとしていて……君が嫌がっているように見えたから、それで、思わず」

「そうでしたの……」

それでよく、あれだけの勢いで駆け寄ってきてくれたよね。いつも皇子という立場を忘れないで、その立場にふさわしい行動をする君が……ほんと、ありがたい!

「それで、どうしてあんなことに?」

「わたくしも、よくわかりませんの。ユールマグナ様が突然、両家の友好の証に一曲、と仰せになって……ラストダンスですと申し上げても、それは慣習に過ぎないと」

「それは不思議だ」

ミハイルは眉をひそめた。

「ウラジーミルがそんな行動に出るなんて……彼らしくないし、どういう目的があるのか見当もつかない」

「はい」

エカテリーナがうなずいた、その時。

音楽が聞こえてきた。

「まあ、ラストダンスが始まったようですわ」

ほっとして、エカテリーナは言った。

これでもう、ウラジーミルとラストダンスを踊る可能性は消えたと言っていいだろう。

安心したとたんに戸外の寒さが身に染みて、エカテリーナは少し震えた。

「あ、すまない」

そこではじめて手を離して、ミハイルが上衣を脱いだ。エカテリーナの肩に、上衣を掛けてくれようとする。エカテリーナはあわてて首を振った。

「そのような……わたくしなどより、ミハイル様の大切な御身をお守りくださいまし」

「平気だよ、僕は鍛えているから」

そう言って、ミハイルは不意に空を見上げた。舞踏会の館から数歩離れて、エカテリーナに微笑みかける。

「見てごらん」

不思議に思いながらも、エカテリーナも同じように館から離れた。夜空を見上げる。

「まあ……」

そこには、満天の星が広がっていた。まばらに星が見える程度だった東京の夜とはまるで違う、銀砂を撒き散らしたようなきらめく星に埋め尽くされた夜。

「ほら、舞踏会が始まる前にアレクセイが言っていたよね。君があまりに美しいから、星が恋して星座がすべて流れて落ちてしまう。だから隠さなければって」

「ミハイル様、あれは、ただの言葉遊びですわ」

「夜空のどの星よりも、君が一番輝いているよ。僕は……そう思う」

その言葉に、エカテリーナはちょっと目を見張る。

そして、微笑んだ。

「ありがとう存じます。素敵なお言葉ですわ」

今のはちょっと、お兄様が言ってくれそうな台詞だった。美辞麗句が上達してきてるよ、皇子。

などと感心した隙に、スマートに上衣を肩に掛けられてしまった。

「ミハイル様、いけませんわ」

ほんと、君がこんな気遣いしちゃ駄目でしょ。

この季節の皇国はもう、夜はかなり冷えるんだから。皇位継承者に風邪なんて、ひかせるわけにはいかないよ。

エカテリーナは上衣を脱ごうとする。

その肩をそっと押さえて、ミハイルは脱がせまいとする。

「本当に平気だよ。女性を凍えさせるなんて、恥ずべきことをしているほうが健康に悪い」

ミハイルは真顔だ。これは美辞麗句ではなく、単なる本気らしい。さすが本物の『王子様』である。

いや!ここは、ナチュラル王子様ムーブに負けている場合ではない!頑張れ身分制社会の常識!

でも上衣が動かせない!強く押さえられているわけでもないのに、力強いね皇子⁉︎そうか鍛えてるもんね!むきー!

力づくでミハイルの手を退けようとするが、力でまったく勝てずにじたじたするばかりのエカテリーナを見る、ミハイルの目が和んでいる。

と、ふと何かを思いついたような表情になった。

「ミハイル様、何か?」

「あ、いや。ちょっと思ったんだ、動けば寒さも和らぐかなって。せっかく……音楽もあるし」

音楽?

「さっきの今だから、君が嫌だったら申し訳ないけど……もし、良かったら。

僕と、踊ってくれないかな」

え。

思わず、エカテリーナはきょとんとミハイルを見上げる。

ミハイルは、しゅんと落ち込み顔になった。

「ごめん。やっぱり嫌だよね」

「いえまさか!嫌なはずがありませんわ!」

全力で否定するエカテリーナ。ミハイルに恩しか感じていない今は、彼を落ち込ませるなどあり得ない。

そして否定してしまってから、あれ?だったら踊るしかなくなってない?と気付くのであった。

いやでも。

「ですけれど……ラストダンスですわ」

「違うよ」

夏空色の髪を揺らして、ミハイルがかぶりを振った。

「ここは、舞踏会場じゃないから。ラストダンスという慣習は、学園の舞踏会にしかない」

う……それは、その通りなんだけど。

「ほんの少しでもいい。エカテリーナ、君と踊りたい」

直球で、ミハイルは言い募る。

「こんな機会は二度とない気がするんだ。家のことや国のことを考える必要なしに、ただ手を取り合って踊れたら、夢のようだよ。どうかお願いだ、このひととき、僕と踊ってほしい」

ミハイルは胸に手を当てて、一礼した。貴婦人にダンスを申し込む、貴人の作法だ。

「エカテリーナ・ユールノヴァ嬢。どうか、一曲」

顔を上げて、エカテリーナと合わせた目の色が、切なかった。

「……せめて一曲」

熱の籠ったミハイルの言葉に、エカテリーナは気圧される思いでいる。

そうか。

これは。

そういうことだよね。

わかる。

皇子は舞踏会でもずっと立場にふさわしい態度を崩さず、自分が楽しむより他の皆の思い出を作ってあげようとしてばかりだった。君が一般生徒だったら、舞踏会でいろんな異性にダンスを申し込んで、青春を味わうこともできただろうに。

これは確かに、ちょっとそれっぽい気分を味わえる、とっても稀なチャンスだわ。

と、前世から筋金入りの残念女は、エクストリーム残念をかますのだった。

どうしよう。誰も見ていないし、ちょっとだけ皇子の思い出作りに協力してもいいのかも……。

という思いが兆したのを見てとったかのように、ミハイルが手を差し出した。小さく微笑んでいる。

その顔を見上げて、差し出された手を見下ろして、エカテリーナは躊躇う。

躊躇いながらも、エカテリーナの手が動きかけた……。

その時。

バアン!と大きな音を立てて舞踏会の館の扉が開かれた。

「エカテリーナ!」

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