待って待って待って。
呼びかけられたにもかかわらず、応えることもできないほど、エカテリーナは大混乱している。
何事⁉︎
なにこれ?
どういうこと⁉︎
ひたすら自分の目を疑うことしかできないエカテリーナを、責められる者はいないだろう。マリーナもフローラも、ただ目を見張って動くこともできないようだ。
それも無理からぬこと。
エカテリーナの前に立っているのは――今の魔法学園を二分する勢力の一方の頂点である、ウラジーミル・ユールマグナ公爵令息。
その人なのだから。
「ウラジーミル・ユールマグナ様」
ようやく声を発することができたエカテリーナは、青薔薇のドレスを摘んで優雅に淑女の礼をとった。
「お初に」
厳密には初ではないが、そこにこだわっている場合ではないというか。
声をかけられた以上、応じなければならない。マナーとして。
相手の身分が低ければ、身分の高い相手に勝手に話しかけてくるのはマナー違反だから、無視してしまうのもありだ。エカテリーナの流儀ではないが。しかし流儀も何もなく、公爵令嬢が公爵令息を無視はありえない。
しかし!
この状況で、何をどう応じればいいのか!
少し長めに優雅な礼をとりながら、内心で絶叫しているエカテリーナである。
この状況。
兄アレクセイが会場を去っており、舞踏会場の運営サイドとしてここで何かあれば収める権限を持つ生徒会長アリスタルフも、学園内で広く人望を集めるニコライも、共に去ってここには居ない。
皇子ミハイルも、今なお姿が見えない。
庇護者も、仲裁が期待できる人もいない。徒手空拳で、エカテリーナはウラジーミルと対峙しなければならない。
ユールノヴァ公爵家とユールマグナ公爵家の対立は、現状は全般的にユールノヴァが優勢と見られている。
しかし今、エカテリーナが単独でユールノヴァを背負っているとも言えるこの状況では、ユールマグナが優勢と言えるのではないか。
最初から、これが狙いだった?あの男子は、この状況を作るために用意されていた?
今ここで、エカテリーナが何らかの失策を犯してしまったら、何らかの言質を与えてしまったら、取り返しのつかないことになり得るのかもしれない。
ユールマグナの術中に、嵌ってしまったのだろうか。
そうはさせるもんかー!
ラストダンスの曲が終わる頃には、お兄様が戻ってくる。一曲だけ持ちこたえればいい。その間だけ守り切ればいい。
ユールノヴァ公爵家を、お兄様を、守るために今やるべきことを考えろ!
頑張れ自分!
エカテリーナは顔を上げ、にっこりとウラジーミルに微笑みかけた。
「妹君エリザヴェータ様と、たいそうよく似ていらっしゃいますのね」
機先を制する。
こちらから口火を切って、会話の主導権を握る。
学園祭で会ったエリザヴェータは、外見も中身も天使のように可愛くて、そして心から兄ウラジーミルを慕っているようだった。
彼女の話を信じるなら、ウラジーミルも妹をとても可愛がっているはず。彼女を話題にすれば、気にして聞くのではないか。
そして実際、目の前で見るウラジーミルの顔立ちは、エリザヴェータと本当によく似ていた。
美。
形。
十歳の幼女エリザヴェータは、天使か妖精か超高級なお人形、という印象だった。ウラジーミルはそれと共通する美麗な顔立ち、骨格もまだ男性的な感じのない繊細な印象でありつつも、大人びた冷ややかな凄みを感じさせる。旧約聖書の詩篇に詠われた明けの明星(ルシフェル)、天界で最も美しいと言われた天使はかくあっただろうかと思うほどの、どこか非現実的な印象さえ受ける美貌だ。
『暁の子明星よ、何ゆえに天より堕ちしや?』
そんな聖書の一節が思い浮かんだ。
ルシフェルは堕天し、悪魔の王サタンとなる……。
しかし思わずにはいられないけれど、ずっとウラジーミル君を心に置いているお兄様、もしかして無自覚面食いかしら。
周辺顔面偏差値がかなり高い今の環境でも、なかなかいないレベル。
「エリザヴェータ様とは、学園祭でお会いいたしましたの。愛らしいお姿と清らかなお心をお持ちの、素敵なご令嬢でいらっしゃいますわ。わたくし、心奪われてしまいました」
脳内で思考をフル回転させつつも、エカテリーナは平和な話題を選んで、ユールマグナとの対立を深める意図などないと周囲にアピールする。
「ミハイル様が、教えてくださいましたわ。貴方様もエリザヴェータ様も、母君似のお顔立ちでいらっしゃると。母君はアストラの、世界有数の歴史を誇る名家から輿入れなさった御方だそうですわね」
ミハイルの名前を出したのは、牽制の意味もある。学園では、ウラジーミルよりエカテリーナのほうが、ミハイルと接する機会は多い。ユールマグナがここで何か計略を仕掛けてきたなら、ミハイルを通じて皇室に訴えることも可能。そう、告げたつもりだ。
ユールマグナ兄妹がよく似ているという、つい先ほどエカテリーナとアレクセイが似ていないからと出自を疑われた件と対比している話になってしまったのは、やむなしだ。
なにしろ、選べるほどウラジーミルと話せる話題の持ち合わせはない。
こうして時間を稼ぎながら、エカテリーナは内心で叫んでいる。
早く、ラストダンスの曲を始めてー!
先ほど、すでにダンスフロアへの人の出入りは終わり、そろそろラストダンスが始まりそうだと思った。男子の騒ぎで時間を取られて、予定は押しているはず。いつ曲が始まってもおかしくない。
ダンスが始まれば何らか理由をつけて彼から離れられるかもしれない。少なくとも話の種にはなるだろう。
けれど、曲は聞こえてこない。
これは……。
実は、エカテリーナは気付いている。
この舞踏会に限らず、貴族のイベントで音響装置を務める音楽家たちは、その場で最も身分の高い者に注目しその都合に合わせようとすることに。
今、舞踏会場で最も身分が高い公爵令息が公爵令嬢のもとへ歩み寄り、会話している。
とあれば音楽家たちは、その会話が終わるまで、わざわざ待っているのでは?
いやいいから!
アナログの融通性を発揮しないでいいので!巻きで!進めて!
って叫ぶわけにはいかない状況がつらいー!
内心で焦りまくるエカテリーナ。
その時、ウラジーミルが口を開いた。
「学園祭でのことは、エリザヴェータから聞いている」
あ……良かった、ちゃんと話題にのってきた。そしてやっぱり、仲のいい兄妹ぽい。
「あの子も君を気に入ったようだ。仲良くなりたいと言っていた」
「嬉しいお言葉ですわ」
おおー、和やかな流れ!
やっぱり、エリザヴェータちゃんを話題にして大正解?あの子は本当に天使かも!
そう、エカテリーナが安堵した瞬間。
ウラジーミルの形良い口元を、笑みに似たものが掠めたようだった。
「では、友好の証として」
言いながら、エカテリーナの前に、すっと手を差し出す。
「一曲……お手を、どうぞ」
え?
は?
はああああ⁉︎