は?
としか、エカテリーナは思えないでいる。完全にキョトン顔だ。
皆が騙されているって、ユールノヴァの偽りって。
何のこと?
いや偽りは確かにあるんですけど。
私、実は悪役令嬢だし。中身が異世界産のアラサー社畜だし。ただ別の世界の記憶があるだけで、すごい才能がある人のように扱われてしまう日々なので、毎日のようにすいませんと心の中で謝っています。ほんとにすいません。
でも、これは私の偽りであって、ユールノヴァの偽りではないからね!
それに、彼は私が悪役令嬢だなんて知る余地ないよね?乙女ゲームをプレイなんて、してないよね?
皇子とかニコライさんとかを、攻略してたらびっくりするよ?
などとお笑い方向へ思考を滑らせながらも、エカテリーナは必死で自制している。舞踏会場の遠い一角に、目を向けてしまわないように。その一角にいる集団の中心にいるはずの、ウラジーミル・ユールマグナを見てしまわないように。
まだ、確証はない。それなのに彼を見てしまえば、動揺していると思われる。
事実、動揺せずにはいられないエカテリーナである。それは、この状況がゲームの断罪破滅に、あまりにもよく似ているからだろう。
誰も知らないエカテリーナの弱点。
自分がゲームの悪役令嬢であり、それゆえに全てを失う可能性があると、知っていること。
ユールマグナが仕掛けてくる可能性は充分に承知していたはずだったのに、その弱点を偶然にも突かれて、エカテリーナは無自覚ながら破滅フラグの影に怯えている。
ともあれ、何のこと?というのは、このやりとりに大注目している舞踏会場の総意であろう。
皆しんと静まり返って、聞き逃すまいと固唾を呑んでいるようだ。
「ユールノヴァの偽り?何をおっしゃいますの?どこかお悪いのでは?落ち着いてくださいませ」
二年生女子は、言葉の意味すら呑み込めない様子でおろおろしている。
しかし落ち着いてという言葉は逆効果だったようで、彼女の婚約者は目を吊り上げて叫んだ。
「僕が落ち着いていないとでも言うのか!誤魔化そうとしても、無駄だ!
あのエカテリーナ・ユールノヴァと名乗る女は、偽物だろう!卑しい血筋の平民を拾ってきて、公爵令嬢に仕立てあげているだけだと、誰もが言っているんだ!」
は?
エカテリーナは何かを考えることもできず、ひたすら疑問符を飛ばしているばかりだ。
あまりにアホらしいことを言われると、どこからつっこんだらいいのかも解らず沈黙してしまうことがあるが、その状態である。
なんでやねん、すら出てこない。
重篤だ。
偽物?平民?仕立て上げている?
誰が?なんで?何のために?
ーーと、いうよりも。
彼はなぜ、こんなことを言い出した……?
「エカテリーナ」
回らないでいた思考がようやく回りかけたその時、エカテリーナの肩にそっと手が置かれた。
「少し、待っていてくれるか」
「はい、お兄様」
兄への応えは他にあり得ず、エカテリーナはアレクセイを見上げて言う。
アレクセイは、妹に優しく微笑んだ。
そして、歩き出した。
後から気付いて、エカテリーナは内心で叫ぶ。
お兄様!
冷気漏れてますーっ!
これは……。
実は、結構マズイかも。
やっと思考ができるようになった頭で、エカテリーナは思う。
もうここまでくれば、これがユールマグナの差し金であると、考えてしまって間違いないだろう。
パートナー詐欺師セミョーンの騒ぎは、こちらの注意を逸らすのが目的で、他に本命があるのかもしれないとは思っていた。
しかしこれは……たった一人が、なんの予兆もなかったところで突然、暴言を吐くとは。
ユールノヴァ公爵家の分家の令嬢と結婚しようとしていた、つまりユールノヴァと多少の縁がありおそらくは利害関係もあるはずの家の令息が、こんな衆人環視の中で、自分の将来も家の安泰もドブに捨てるような発言をするなどということがあり得るとは。
流石に予想できなかった。
婚約を破棄する!というお決まりの台詞、みんなが内心期待していたけれど、あれは舞踏会のパートナー確保のための仮婚約の破棄のこと。仮ではないガチの婚約は、訳が違う。
貴族の婚約は、家と家との契約。
正式に婚約する時には、両家の間をお金や物が動く。前世の日本でもちょっと前まで、なんなら現在でもあるところにはあるらしい、結納という習慣があった。かなりまとまった金額をやりとりしたり、縁起のいい品物を贈り合ったりするものだったはず。日本だけでなく世界中で、そういったことは行われていた。
皇国の貴族ともなると、まあ家格にもよるのだけど、日本の一般家庭とは比較にならないスケールになる。
領地の一部を交換したりとか。事業提携とか、事業の割譲みたいなことを、結婚にかこつけてやることだっていくらでもある。むしろそれがメインで、子供の結婚はその理由付け程度、なんて普通らしい。
そういえば、マリー・アントワネットがオーストリアからフランスに嫁いだのも、三十年戦争やら七年戦争やら両国の間で長い戦乱があって、なんだかんだでオーストリアとフランスが同盟を結ぶことになって、友好の証として決まった結婚だったはず。好き嫌いで婚約破棄なんてしたら、同盟が決裂してまた戦争が始まっちゃうやつですよ。
さっき話した時も詳しく聞いてはいなかったけれど、先ほどの女子の様子は惚気を言ってはいても恋愛結婚ではなく、決められた相手とうまくやれていて嬉しい、という感じだった。
だから、二人の婚約は家と家とで取り決められたもの。それを、個人の感情で、家も通さずこんな形で、破棄することが許されるわけがない。
そこからの、私への誹謗中傷。
考えれば考えるほどむちゃくちゃですよ。
ここまで背水の陣というか、貴族令息としての常識や立場を投げ捨てているような状況で言い出すなら、これは勇気ある真実の告発かもしれない!
と思う人も出てくるのではないか。
いやほんと君、なんであんなこと言い出したの?
セミョーンと同じく、『闇の左手』の魔力で植え付けられたのだろうか。そう考えるのが、一番わかりやすいけれど……。
あれをここまで派手に使うだろうか?さすがに、疑惑を生むのでは。
ともあれ、たった一人の、わずかな言葉。
ある意味、コスパが良いとは言える。チープな仕掛けと言ってもいいだろう。ユールマグナ公爵家というより、お兄様が本体を害するコカトリスの尾と評した、色気美人ザミラの個人的な策なのかもしれない。
それでも、おそらく、効果はある。学園関係者すべての注目の中で、全員の耳に入ったこれは、もう消えることはない。
ユールノヴァに敵対する者たちは、火のない所に煙を立てて、炎上させようとするだろう。
その火種として、用意されたのではないか。
これに対抗する手段はあるだろうか。
ユールノヴァ領での祝宴で、分家のノヴァダイン伯爵が娘のキーラとお兄様の婚約が決まっていたという爆弾発言をかました時には、お兄様はあざやかに返り討ちにしてのけた。
でもあれは、事前に情報を掴んでいて、逆に彼らを一網打尽にする罠を張っての上でのこと。
さっきの台詞は、お兄様が絶対に許せないところを突いた。シスコンお兄様は、私への侮辱に激怒しているのは間違いない。冷静に対処はできないかも……。
いやでも、超有能お兄様だから。完璧に打ち返してのけるかも。
でも、お兄様シスコンだし。私への侮辱は許さないって、いつも言ってくれるし。そこを見越してのユールマグナの策である可能性はある、さらに何かを仕掛けてくる可能性も。
どうしよう。私のせいでお兄様が窮地に立たされたらどうしよう!
両手を握りしめて案じるように兄を見送るエカテリーナの姿に、会場内から多くの視線が注がれていた。
案じるような温かい視線が。
疑うような冷たい視線が。
ユールノヴァ公爵が動き出した。
近くにいる人々は、アレクセイの氷属性の魔力がダダ漏れていることとは関係なく寒気を感じていそうな顔色で、公爵閣下と目を合わせるまいと視線をあらぬ方へ逸らせている。
遠くの安全圏から見ている者たちは、逆に目を見張ってアレクセイを見つめていた。
いつもと変わらぬ無表情で進む彼の周囲に、キラキラと結晶が散っている。
最愛の妹にあらぬ疑いをかけられた彼の激怒は、どれほどのものか。想像するだに恐ろしい。
舞踏会会場は、地獄もかくやという沈黙に凍りついていた。
アレクセイが歩む先にいるのは、もちろん婚約破棄騒動の真っ最中である二年生男女だ。
男子のほうは、固まっている。
先ほどの勢いはどこへやら、近付いてくる公爵閣下の気配を感じただけで、顔面蒼白になっているようだ。
目だけが動いてちらちらと女子を見ているのだが、その視線がどうも懇願するような雰囲気に見える。ユールノヴァの分家の者である女子に、アレクセイへのとりなしを頼みたいのだろう。
が、ついさっき婚約破棄を高らかに叫んでおいて、図々しいというか。
婚約者に好意を持っていたはずの女子の視線は、すん……をはるかに通り越して、すでにブリザードである。
晩秋だというのに、男子の額には汗が噴き出していた。
その傍らに、アレクセイが立つ。
自ら光を放つようなネオンブルーの瞳が、凍てついて男子を見下ろした。
「……先程、思わぬ言葉が聞こえてきた」
独語のように呟いた言葉に、会場全体が聞き入っている。
「四百年の歴史を誇る我が公爵家への、深刻な侮辱となる言葉。皇帝陛下もお聞きになれば驚き呆れるほどの、暴言だったが……」
「そんな……そこまでその……」
ぼそぼそ呟く男子はもはや、だらだらと汗を流していた。
「我が妹、ユールノヴァ公爵家の女主人、ユールノヴァ騎士団の貴婦人たるエカテリーナ・ユールノヴァに対して、何と言った」
「いえ……あの……」
鋼のような声音で言うアレクセイと、決して目を合わせるまいと男子は下ばかりを向いている。
お兄様。
そうです。ただの暴言だと、そういう空気を作ることができればいいと思います。
どうか冷静に。
祈るように、エカテリーナが思った時。
アレクセイが言った。
「ユールノヴァ騎士団のあるじとして、我が貴婦人を侮辱した者に、真剣での決闘を申し込む」
舞踏会場がどよめく。
真剣での決闘となれば、生命懸けの闘いだ。
アレクセイのネオンブルーの瞳は、限りなく本気だった。
お兄様あああーっ!
全然冷静じゃなかったー!