328. ラストダンスは終わりの始まり

時はすみやかに過ぎていった。

準備に長い時間をかけるイベントはいつもそうだと、エカテリーナは思う。数ヶ月かけて構築したシステムのリリース日、たいてい嵐のように時間がどこかへ飛んでいって……という記憶は思い出しても楽しくないので記憶の底に叩き込むことにして、学生時代の文化祭や、合唱部の大会などがそうだった。

記憶の中では準備の日々ばかりが鮮明で、当日のことはそれほど覚えていない。それくらい、飛ぶように時間が過ぎていった。楽しい時間は早く過ぎ去ってしまうものだ。

今、舞踏会は最高潮。舞踏フロアは、手を取り合って踊る若き男女で溢れんばかりだ。

飲み物や食べ物を楽しむ者も多く、この舞踏会でのみ生徒に解禁されるアルコールを酌み交わしている若者たちの話し声が、いつもより陽気に響いている。そうかと思えば隅で何やら言葉少なに佇んでいる男女もいるが、それはそれで青春の一幕なのかもしれない。

参加者たちのきらびやかな装いと、弾けるような若さに、会場全体が輝いているかのように思われた。

いつかこのときを忘れる日が来るなどとは、今はとうてい思えないほど、エカテリーナは宴を楽しんでいる。

話しかけてくる者は、引きもきらない。今は、小さな念願が叶っていた。学園内に何人かユールノヴァ領出身の者がいると聞いていたが、機会がなくて会えていなかったのだ。その彼らが、一団になって挨拶にきてくれた。

エカテリーナの様子をせっせと手紙に書いて領地の家族に送っているらしい彼らは、一年生から三年生まで一、二名ずつ取り揃っている。

二年生は女子が一人。ユールマグナ派が優勢な学年だから、ここでユールノヴァの者と明らかにして大丈夫かという心配もあったが、女子が胸を叩いてお任せをと言ってくれた。学年全体がユールマグナの派閥というわけではなし、特に肩身が狭い思いなどしていないそうだ。

同じ学年の婚約者との仲も良好ですの、と顔を赤らめつつ宣言されたのは、単に惚気られただけの気がする。皆と一緒に笑って、ユールノヴァの思い出話などに話が弾んだ。

「エカテリーナ、楽しいか?」

「もちろんですわ!お兄様は楽しんでおられまして?」

「この上なく楽しいとも。喜びと幸せ以外に何があるだろう、お前が側にいるのだから」

「お兄様ったら」

アレクセイの通常運転な言葉に、エカテリーナが笑う。側にいるフローラやマリーナも、微笑みを浮かべていた。さらにその周囲にも多くの人々が兄妹を取り巻いていて、エカテリーナの言葉や表情に注目している。

そして、アレクセイが妹へ向ける表情、言葉が普段の彼とまったく違うと、目の当たりにして驚く者が大勢いた。

若干名、妹へ向けるアレクセイの甘い笑顔が着弾して、頬を染めている女子もいたりしたが。

舞踏会会場内の離れた場所ではユールマグナも人々に取り巻かれているが、その人数には明らかな差があった。ユールノヴァのほうが勢いがあると、誰もが判断できる情勢だ。

理由の一端は、皇子ミハイルがユールノヴァ寄りと見られていること。ミハイルが皇位を継げば、ユールノヴァの時代が来るだろうと。

そのミハイルは、エカテリーナがアレクセイと過ごせる最初で最後の学園の舞踏会であることに気を遣って、自分のクラスメイトと話したり他の生徒たちに声をかけたりして、兄妹と距離をとっている。

で、何かを温かく応援されて、エカテリーナ本人だけがわかっていない状況に遠い目をしたりしているのだが……そのあたりは、エカテリーナは一ミリも気付いていないのであった。

とはいえ、学園のイベントでも『皇子』としてのふるまいを求められるミハイルを、なんとかしてあげたいとは強く思っているのだけれど。

ともあれ、ユールマグナとは互いに直接は関わることなく、こちらが明らかに優勢でわざわざ張り合うような必要もないとなれば、もう忘れて今を楽しもうと思えている。

そしてなんといってもエカテリーナがそう思えるのは、兄が楽しそうだからだ。

お兄様シスコンだから、私がいるから楽しいって言ってくれるけど。

それより、ニコライさんのおかげがとっても大きいと思います!本当にいい人だー!

アレクセイとニコライが名前で呼び合う友人関係になった影響の大きさを、エカテリーナは噛み締めている。

ニコライと話す時のアレクセイは、他の時とは表情が違う。常に『ユールノヴァ公爵』として生きている兄が、アレクセイという個人になれていると思うのだ。

そしてニコライは、人気者で顔が広い。会場で友人を見かけると呼び寄せて、アレクセイに紹介してくれたりもする。脳筋のようでいて賢明なニコライだから、紹介するにふさわしい人物を選んでのことで、学生ながらすでに領地経営に関わっていたり特異な才能を持っていたり、秀でたところのある者たちとの会話を、アレクセイも楽しんでいるようだ。

十八歳にして三大公爵家の堂々たる当主であるアレクセイは、周囲から畏敬の念をもって見られているが、内心では同世代から敬遠されることにちょっとしたコンプレックスを感じているらしい。

けれど今日は多くの同年代との出会いがあり、会話がある。エカテリーナがアレクセイのために願っていた、学生時代のよき思い出となるだろう。

エカテリーナとしては、感無量だ。

とはいえニコライが友人たちをアレクセイに引き合わせることができるのも、エカテリーナが側にいる時のアレクセイがいつもより気安い雰囲気であればこそだろう。エカテリーナと話している時こそ表情が違う。周囲もエカテリーナを慕う者たちが取り巻いていて賑やか。

そんな自分の貢献を、エカテリーナは過小評価しているかもしれない。

今、アレクセイが話している相手は生徒会長アリスタルフ・クローエルだったりする。ニコライはアリスタルフとも親しいようで、三人で話していると、以前アレクセイとアリスタルフが会話した時とはかなり雰囲気が違う、くつろいだ感じに見えた。

兄のそんな様子を何より喜びつつ、その間はエカテリーナは生徒会長のパートナーであるリーディヤと、こちらも楽しく会話している。

「それから、あのヴァイオリンもなかなかの腕前ですわね」

「さすがリーディヤ様ですわ。楽団の奏者一人一人の技量を、聴き分けることがお出来になりますのね」

感心されて鼻高々な内心が隠しきれないリーディヤこそが、会話を楽しんでいるかもしれない。

エカテリーナとて、クラスの合唱から歌い手一人一人の技量を聴き分けられるくらい耳は良いのだが、全員がプロの音楽家である楽団奏者たちの技量の優劣を判断できるほど楽器の演奏を聴き込んではいないから、素直にリーディヤを称えていた。

「クローエル様とは、ダンスはなさいまして?」

「いいえ、いつ何が起きるかわからないので、声が掛かればすぐ動ける所にいたいそうですの」

そう答えて、リーディヤはふふっと笑う。

「ですけれど、思いのほか楽しく過ごしておりますわ。意外に話が合うと言いましょうか、同じ……ものを好いておりますので、それについて話すのが楽しゅうございます」

生徒会長、音楽好きだったのかー。それはますますリーディヤちゃんとお似合いだなあ。

「それはようございました」

リーディヤが言う『好きなもの』が音楽だと思い込んで、エカテリーナはにっこり笑った。

そう思い込んでいることを理解している様子で、にっこりとリーディヤも笑う。

そして、話を変えた。

「それに、学園の舞踏会はもの珍しゅうございます。参加者全員が揃って始まり、参加者全員がラストダンスまで揃ったまま終わるというのですもの。普段の夜会と違って、新鮮な心地がいたしますわ。ラストダンスでは様々なことが起きるそうですけれど、それがすぐに広まるのは、全員がそれを目の当たりにするからこそなのですわね」

エカテリーナは目を見開く。

言われてみれば!

ユールノヴァでの祝宴や皇子歓迎の宴でも、人々は時間差でやって来て、時間差で帰って行った。一斉に動いてしまうと馬車渋滞が大変なことになる、という現実的な理由もあって、身分や会場との距離などに応じたタイミングで程良く来て程良く去るのがマナーなんだよね。

私、パーティーに呼ばれて行った経験がなくて、ユールノヴァ領で公爵邸に招待客を迎えたことしかないんだよね……だから、そういう感覚が全然なかったわー。

「わたくし社交の経験が乏しいもので、学園の舞踏会が珍しいということがよくわかっておりませんの。お恥ずかしいことですわ」

エカテリーナは素直に言った。

リーディヤはおそらく、かつてのエカテリーナの境遇をある程度察している。その上で、今は味方だ。

「エカテリーナ様は病弱でいらしたのですものね。今はお元気になられて、何よりですわ」

すぐにリーディヤは応じた。思った通り、対外的な建前を死守してくれる。

「社交のご経験は、これから積んでゆけばよいことですわ。皇都の社交界は、エカテリーナ様のご参加を待ち望んでおりましてよ」

ひー。

力付けようとするリーディヤの言葉に、逆にびびってしまうエカテリーナ。

お兄様のためにも、ユールノヴァ公爵家の女主人にふさわしく、社交をこなしていかないと。

でも、責任が伴うだけに、そんな待ち構えられていると思うと腰が引けてしまう……。

私の社交の経験なんて、ユールノヴァ領で催しに参加したくらいなんですよ。自分の領地で臣下にあたる人たちと接するのと、皇都で他家の人たちとお付き合いするのって、訳が違うんじゃ?しかも私、ユールノヴァ領ではお兄様やノヴァクさんの奥さんのアデリーナさんとかに助けられてばかりで、自分の経験を積めたような気が全然していないんですけど!

エカテリーナは何となく、皇都での貴族の社交というものにすごいハードルを設定してしまっているようだ。前世の社畜経験が全く役に立たないジャンルなのが大きいのだろう。そして、社交界に君臨していたらしい祖母に、母アナスタシアがいびり抜かれたせいもある。

「わたくし……そのようなお付き合い、つとまりますかしら……」

つい、顔を赤らめて、心細そうに呟いてしまった。

「くっ……」

なぜかリーディヤが拳を握りしめて呻く。

「あの、ご気分でも?」

「あらいえおほほ、ご聡明なエカテリーナ様がそのようにお可愛らし、いえお悩みになることはございませんわ。わたくしがご一緒いたします。しっかりとご案内いたしましてよ」

「まあ!リーディヤ様にご一緒いただけるなら安心ですわ」

エカテリーナは本気でほっとした。皇都の社交界で高い地位にあるリーディヤだ、心強いことこの上ない。シビアな見方になるが、彼女のセレズノア侯爵家はユールノヴァ公爵家の傘下に入っているから、自分の家のためにもエカテリーナの立場を守ってくれるだろう。

「どうかいろいろお教えくださいましね」

「ええ、もちろんですわ!」

なぜか鼻息荒く答えるリーディヤに、内心首をかしげるエカテリーナであった。

そして、もう舞踏会は、最後の一曲を残すのみとなる。

ラストダンスだ。

舞踏フロアでは、大きな人の動きが起きていた。ラストダンスを踊るのは、婚約済みの男女か、婚約を決めた男女のみ。

該当するペアは、どこか誇らしげに、あるいは初々しく照れた様子で、舞踏フロアに入ってゆく。

そうでないペアは、急いで舞踏フロアを去ったり、興味津々で舞踏フロアを取り巻いて見物する態勢になったりしている。なにしろたった今、プロポーズに等しい申し込みを行っている男女もいるのだ。

新たに婚約したのは誰と誰か。どの家とどの家が結びつくのか。貴族の力関係を把握するためにも、野次馬的興味としても、見逃せないところである。

そして野次馬的興味と言えば、ラストダンスで時々発生するという婚約破棄が起きるのではないかと、皆が期待しているようだった。婚約破棄と言っても、舞踏会のための仮婚約の破棄だから、野次馬側も気楽なのだ。

そして、声が響いた。

「僕は、君との婚約を破棄する!」

キター!

とばかりに、人々は一斉にそちらへ顔を向ける。

エカテリーナも、思わずそちらを見た。

そして、思わぬものを見て目を見開いた。

「突然……何を、おっしゃいますの?」

きょとんとした表情で、ただ戸惑うばかりの声音でそう言ったのは、ついさっき婚約者のことを惚気ていた、ユールノヴァ出身の二年生女子だったのだ。

「僕は真実を知った!だから、君との人生などお断りだ!」

芝居がかった動きで、女子の婚約者は腕を一振りする。

そして、いっそう声を大きくして、叫んだ。

「みんな、騙されている!僕は知ったんだーーユールノヴァの偽りを!」

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