326. 円舞曲

舞曲が終わり、踊り手たちが動きを止めた。

音楽を奏でているのは、舞踏フロアの傍らにいる一団の音楽家たちだ。レコードすらまだ存在しないこの世界、音楽はすべて生演奏である。

先ほどまで奏でられていた曲は、軽快なステップのダンスのための曲。高々とリフトを決めていたクルイモフ兄妹の運動量は別次元だったとはいえ、そもそも動きが速いダンスを終えて、踊り手たちは弾む息を整えていた。

楽団の指揮者がその様子を見て、楽団に合図を送る。次の曲が始まるまでにしばしの間を置くことが伝わり、今のうちにと音楽家たちが楽器のチューニングを始めていた。踊り手たちにも動きが起きて、踊っていたペアが舞踏フロアから出たり、新たなペアが入ってきたりする。舞踏フロアはざわめいていた。

息を乱しもしていなかったクルイモフ兄妹は、しかし曲が終わると共に舞踏フロアを去っている。舞踏会の定石として、次はゆったりした動きの優雅なダンスになるため、いったん退いたようだ。好きな曲でだけ踊りたい、マリーナの意向であろう。

前世の社交ダンスにもワルツの他に、タンゴやフォックストロットなどいくつか種類があったが、皇国のダンスもいろいろ種類がある。動きの速い明るい印象のもの、ゆったりとした優雅なもの。

舞踏会ではそういう各種のダンスを取り混ぜたセットリストが、あらかじめ組まれている。しかし楽団の指揮者が場の雰囲気を見て曲を入れ替えたり、ある曲が盛り上がれば同じ曲を続けて演奏することもあるようだ。リクエストに応じてくれることもあり、なかなか自由度は高い。

音楽を再開するタイミングを見計らっていた指揮者が、ふと吸い寄せられるように一組のペアに視線を向けた。

舞踏フロアに現れた、ひときわ見目麗しい、学生とは思えないほど大人びた男女。衣装の見事さ、若さに似合わぬ貫禄からして、大貴族の令息令嬢に違いない。

それだけでなく、指揮者は気付いていた。

(ユールノヴァ公爵閣下……!)

貴族や富裕層の社交における音響装置として、音楽家たちは社交界に出入りする。それゆえに多くの音楽家が見知っていたのだ、皇都の社交界で華やかに浮き名を流していた、男も見惚れる美男子だった先代アレクサンドル・ユールノヴァ公爵を。

アレクセイはほとんど社交界に出入りしないが、容姿は父親に生き写し。

見つめたために、公爵のパートナー、藍色の髪の美女と目が合ってしまった。

微笑まれて驚く。貴族は身分が高ければ高いほど、自分たちへの奉仕者を空気かのように意識から外して、存在に気付きもしないことが多いので。

彼女はおそらくはエカテリーナ。今、皇都の社交界で最も注目されている、ユールノヴァ公爵の妹だろう。

指揮者は指揮棒を握り直し、楽団に目で合図を送る。楽団の音楽家たちも、ちらほら気付き始めている。

次の曲、主役がこの美しい兄妹になることは必然。

彼らは調音を終えた楽器を構え、高貴な兄妹に合わせたタイミングで曲を始めようと集中した。

……考えてみたら私、大勢のペアに混じって踊るのは初めてだわ。

ユールノヴァで踊った時はファーストダンスだったから、お兄様と二人きりかフローラちゃんと皇子も加わって四人だけで、他には誰もいなくて気を使う必要がなかったけど、今回は人にぶつかったりしないよう気を付けなくちゃ。

そんなことを考えているエカテリーナは、アレクセイにエスコートされて舞踏フロアの中心付近へ進んでいる。周囲にはある程度の人のいない空間があって、エカテリーナはほっとした。兄と向かい合い、見上げて微笑む。アレクセイも妹を見下ろして、優しく微笑んだ。

互いの身体に腕を回して、手を取り合う。

「きゃーっ!」

……お姉様方のこれ、なんか久々に聞いた気がするな。

頭の隅で思ったものの、すぐにそんな思いは消えた。なにしろ、抱き合った状態(ダンスの基本姿勢だ)という至近距離で、兄が微笑んでいる。

幸せー!

お兄様の『お願い』ですることになったダンスだけど、私にとってもご褒美です!

学園の舞踏会で二人で踊ったこと、お兄様にとっての学生時代の思い出になってくれたら嬉しいなあ。そうなるよね、お兄様シスコンだから。

そんな風に思っているエカテリーナの笑顔は輝くばかりで、周囲から麗しい兄妹に見惚れる視線が集まっていた。

指揮者の指揮棒が振り下ろされ、音楽が始まる。

二人は踊り始めた。

曲は円舞曲。

前世のワルツによく似た、ゆったりと優雅で円を描く動きが特徴的な、皇国のダンスの王道と言えるダンスのための曲だ。

ステップは決して複雑ではない。それだけに奥が深く、優雅でありながら軽やかに流れるように、音楽にのって踊ることが求められる。音楽家たちが奏でる美しい楽曲からリズムを掴んで、拍子に合わせて踊る感覚も必要だ。そのため、最も実力が表れるダンスと言われている。

貴族の子女なら子供の頃から習っていて当然のダンスだが、母と共に幽閉されていたエカテリーナだから、経験は周囲より乏しいーーのだが。

まさに、流れるように。

アレクセイのリードに導かれ、風に舞う花びらのように、エカテリーナは旋回する。

青薔薇の刺繍が施されたドレスのスカートが、蕾が花開いたかのようにふわりと広がる。ポニーテールにまとめた藍色の髪が、旋回する動きを追って靡いた。

水のように、風のように。

滑らかに、軽やかに。

公爵令嬢として、普段からあらゆる所作が優雅なエカテリーナだ。ダンスの技術的なことをさておけば、見る目に美しく踊ることは容易い。

そして兄とのダンスは、領地でのファーストダンスで特訓した。

ダンスは男性がリードするもの、男性の技量がダンスの良し悪しを決めると言って過言ではない。運動神経抜群のアレクセイのリードは完璧。最愛の妹を腕の中にして、完璧を超えて優しく愛しげだ。

優雅でありながら、拍子をとらえて正確に踏むステップは軽快でもあり、見る者に心地よい。そのリードに身をゆだねきって、エカテリーナは軽やかに踊る。

エカテリーナのドレスのデザイン、左右できっぱりと分けたアシンメトリーな色彩が、旋回する動きを際立たせる効果を発揮した。そしてアレクセイの身体に回した左手に輝くブレスレット、ガラス細工の大輪の青薔薇。こちらもその美しいきらめきで、エカテリーナの動きを引き立て見る者のため息を誘う。

二輪の青薔薇が踊る円舞曲が、会場の視線を釘付けにしていた。

「ああ素敵……」

「なんて息のあったダンスでしょう。さすがユールノヴァご兄妹ですわ!」

「閣下にあれほど優しく見つめていただけるのは、妹ぎみだけですわね」

まさに釘付け状態で兄妹のダンスを見ながら囁きあっているのは、アレクセイのクラスメイトの女子たちだ。アレクセイとエカテリーナが舞踏フロアに向かうのを察知するや、それぞれのパートナーを引きずる勢いで見やすい位置に駆けつけたのだったりする。

パートナーの男子たちは、遠い目だ。

「閣下と比べられたら、そりゃ敵わないけどね」

とぶつぶつ言う者もいれば、エカテリーナに見惚れている者もいる。

そして、こんな言葉を交わす者たちも。

「父はユールマグナ家に従ってきたが……見直すべきだと説得しなければ」

「だが父たちの世代は、アレクセイ閣下のことを若すぎる、不安だと」

「未来を見てほしいよな。そもそもユールマグナのゲオルギー公は、皇帝陛下と同世代なのに陛下から重んじられているとは言えないそうだし」

「その点ユールノヴァは、アレクセイ公は有能でミハイル殿下との関係もいいし、エカテリーナ嬢は……」

そこで言葉を切って、男子は踊る兄妹から視線を外し、周囲を見回す。探していた人物を見つけて、その様子ににんまりと笑った。

「あれを見ろよ。ミハイル殿下はユールノヴァを、エカテリーナ嬢を選ぶだろうな。当然」

「楽しそうだ」

せっかく取った飲み物にろくに口もつけないまま、ミハイルはエカテリーナとアレクセイのダンスを見つめている。

隣には、こちらも飲み物を手にしたフローラが慎ましく控えているが、同じく兄妹のダンスに目を奪われているのだった。

フローラも学園で一、二を争う美少女だが、そんな異性が隣にいるのにエカテリーナから目を離せないミハイル。そして誰もが憧れる「王子様」が隣にいるのに、親友のことばかり気にしているフローラ。

二人の様子に、これはこれで視線が集まっている。

「エカテリーナ様は、舞踏会で閣下に学園での思い出を作ってほしいと言っていらっしゃいました。いつもお仕事ばかりだから、今しか作れない経験をしてほしいと。それが叶って、喜んでいらっしゃるのだと思います」

「そうか、エカテリーナらしいね。アレクセイは、エカテリーナのそういう気遣いが嬉しいんだろうな」

ふふ、とミハイルは笑った。

「アレクセイがあんな風に楽しそうに踊るのを見るのは、本当に久しぶりだ」

「……以前にも?」

フローラが不思議そうな顔をする。エカテリーナ以外の人間と楽しげに踊るアレクセイなど、想像もつかないのは当然だ。

「昔の話だよ、まだ僕たちが子供だった頃。初めてダンスを習った時、お互いをパートナーにしてやってみるように言われて、三人で順番に踊ったんだ。あの時アレクセイは、今みたいに大事そうに楽しそうに踊っていた……僕が相手の時は、むすっとしていたくせに。本当に仲が良かったんだ、あの頃は」

最後は呟くような声音になって、ミハイルは小さく嘆息した。

フローラは黙っている。

やっと気付いたように飲み物を一口飲んで、ミハイルは話を変えた。

「来年が、今から楽しみだ。僕もエカテリーナと、あんな風に楽しそうに踊れるように頑張ろう」

「それはとっても大変ですね」

エカテリーナのことになると、黙っていないフローラであった。

ユールノヴァ兄妹が視線を集め、ときおり歓声もあがる舞踏会会場。

しかしそこに、しんと静まっている一角があった。

その一角に集まっている者たちは皆、皇国の伝統衣装を身にまとい、エカテリーナとアレクセイのダンスに冷ややかな目を向けている。

彼らの中心にいるのは、ウラジーミル・ユールマグナ。そして、ザミラ・マグナスとラーザリ・マグナスら双子の兄妹だ。

ウラジーミルも、無言で兄妹のダンスに視線を注いでいた。

「相変わらず、人気取りが上手いことだ」

苦々しげに、そしてどこかおもねるように、ウラジーミルたちの近くにいる青年が言う。彼の名はタラース・サトルキヤ、侯爵家の次男。輝くばかりの金髪、背が高く整った目鼻立ちをしていて、いかにも自信家そうな雰囲気がある。

しかしウラジーミルの美貌の前では、整った容姿も霞むというものだ。

次男であるタラースは、兄に代わってサトルキヤ侯爵家を継ぐという野望を持っているらしい。そのためにユールマグナの支援を欲しがっていて、野心が媚びになって表れていた。

「わたくし、円舞曲ならば別の曲が好みですわ」

ザミラが言う。タラースの言葉に取り合わず話を変えたのか、ただの気まぐれか。

ふふと微笑んで、流し目で周囲を見回した。

「わたくしの好みの曲がお分かりになる方、いらっしゃるかしら?」

蠱惑的な笑みに魅了された人々が、当てようと我先に曲名を挙げ始める。

「ウラジーミル様。お疲れではありませんか」

妹の周りの喧騒には見向きもせず、ラーザリがウラジーミルに身を寄せて囁いた。

「しばらく、静かなところで休息なさっては」

応えず、ウラジーミルはなおもユールノヴァ兄妹のダンスを見続けている。

が、しばしの後にラーザリに目を向けて、こう言った。

「ラストダンスか」

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