エカテリーナたち四人は、連れ立って舞踏会会場の館へ向かった。
小径をたどるうちに陽は没して、秋の美しい夕暮れが空を染める。その彩りすら、歩みを進めるひとときのうちにも移ろい、空の色は紫へ、そして薄蒼い宵闇へと変わっていった。
そんな中でも、足元に不安はない。今年の舞踏会のテーマである光の演出の一環として、生徒会が会場までの道にいつもより多くの灯火を用意してくれていた。
面白いのは手提げの角灯を灯火に使うため、学園のあちこちにある石像を寮と会場を繋ぐ道筋に持ってきて、その手に角灯を持たせていることだ。石像は昔の偉人が多いので、見守られている気もするし、偉人を灯り持ちに使ってしまって申し訳ないような可笑しいような気持ちにもなる。
光の演出と言っておいてただの角灯は、色彩あふれるLEDのイルミネーションやプロジェクションマッピングを見慣れた前世でなら、拍子抜けと思われるだろう。けれどこの世界の夜は、前世の東京よりはるかに暗い。だから、灯りがたくさんあるだけで、そこは特別な場所になる。
江戸時代の吉原は、百目蝋燭という大きくて高価な蝋燭を惜しげなく灯して、夢の世界を演出したそうだ。革命前夜のパリは、当時としては非常に街灯が多く、それだけでも光の都と呼ばれ憧れの場所になった。
思えば東京の夜景さえ、実は多くが普通の街灯や家や会社の灯りの集合だったはず。
夜空に星も見えないほど地上に光があふれていた東京と違い、満天の星が輝く皇国の夜では、連なる灯りは充分に人の心を浮き立たせる演出なのだった。
空に一番星を見付けて、エカテリーナが指さして教える。アレクセイは微笑んで、エカテリーナを星から隠すように引き寄せた。
「星が空から流れて消えようと構いはしないが、お前が天に連れ去られるのは恐ろしいからね」
「お兄様ったら」
エカテリーナはコロコロと笑う。
「わたくしは、お兄様のお側を離れたりはいたしませんわ。お側を離れて遠くへなど、決して参りません」
「その言葉を忘れないでいてほしい。お前は天になど昇らなくても、この地上でも充分に輝いているのだから。エカテリーナ、私の明星」
兄妹の通常運転な会話を聞きながら、フローラはにこにこと微笑み、ミハイルはまた天を仰いでいる。
石像の偉人たちが掲げる灯火に導かれて、たどり着いた舞踏会会場の館は、やはり華やかに光輝いていた。
舞踏会会場の館は、明らかに皇城を模して建てられている。
巨大な皇城と比べればミニチュアだが、尖った青屋根の塔を入り口の左右にそなえた、白い壁の館。すべての窓から光が溢れているだけでもこの時代の人の心を浮き立たせるが、館そのものが美しい。
皇都の中心にそびえ立つ皇城は、某ネズミの国のシンボルだったおとぎのお城を思い出すほど、美しい建築物だ。
それだけでなく、学園の生徒の大半を占める下級貴族の子息子女たちにとって、皇城でのパーティーに招待されることは、憧れでありつつあり得ない、夢のまた夢だろう。いっそ平民なら、最初から自分とは無縁と割り切れる。けれど貴族の一員である彼らは、夢想するくらいは許される立場だ。
届かない夢ではあるのだけれど。
そんな憧れの皇城での舞踏会を、この会場で疑似体験できる。
若者たちのトキメキが倍増する舞台装置なのだ。
年に一度しか使わない建物に、これほどのものを用意する……やっぱり魔法学園は、壮大なる合コン会場。国家の罠ですね!
確信を深めるエカテリーナだったが、そこへアレクセイの呟きが聞こえてきた。
「……もっと早くお前を、皇城へ連れて行っておくべきだった」
エカテリーナは兄を見上げる。
一年生二年生の時には舞踏会に参加しなかったアレクセイは、今日初めてここへ来たはずだ。会場が皇城を模した建物だと今になって知って、悔やんだのだろう。
エカテリーナはまだ、皇城に行ったことがない。しかし公爵令嬢という身分なら、本来は、幼い頃から皇城での催しに足を運んでいて当然。それなのに、ユールノヴァ公爵令嬢ともあろうものが、疑似体験で喜ぶ同級生たちと同じく本物の皇城を知らない。
十八歳という若さで三大公爵家の一角を率いる誇り高きユールノヴァ公爵として、そして極度のシスコン兄として、いろいろ思うことがあるに違いなかった。
お兄様ったら。そんなの、たいしたことじゃないのに。
そう思って、けれどエカテリーナは思い直した。幼い頃から皇城に出入りしていた、そのことは、高位貴族としてーーなんというか、序列に関わるのだろう。身分だけではない、個としての位置付けにおいて。
まだまだ貴族令嬢としての社交などの経験は乏しいエカテリーナだが、そういうことがどれだけ身を守る盾になるかは、おぼろげながら理解できるようになってきていた。
『同じ階級同士の中で、絶え間ない争いがある』
兄がそう言ったのは、いつのことだっただろう。
たいしたことじゃない、なんて、言ってはいけない。だって、お兄様は私を案じてくれている。皇城へ連れて行っておくべきだったという言葉は、妹への愛なのだ。
お兄様の愛を軽んじるなんて、あり得ないだろうブラコンとして!
内心で拳を握って叫んだのちに、エカテリーナは微笑んだ。
「わたくしの経験不足を案じてくださいますのね。わたくしが、まず勉学に勤しむことを望んだばかりに、ご心配をおかけして申し訳のう存じます」
まず勉強したい、ってお願いしたのはもうずっと昔のような気がする、三月のこと。お兄様と一緒に初めて皇都へ来て、前世の記憶がよみがえったばかりの頃の話。引きこもりから脱したばかりの頃を思い出してくれたら、皇城行きは無理だったなと思ってもらえるかなと思って持ち出してみました。
まあその後、勉学だけでなく公爵邸の切り盛りやガラス工房の経営などやるべきことがどんどん増えていって、社交界での地位のためだけに皇城へ行くなんて時間の余裕はなくなる一方だったので、こんな前のことは持ち出す必要ない気もしますけども。
「社交については、わたくしはまだまだ未熟……ですけれど、わたくしの初めての登城は、もったいなくも皇后陛下のお招きを受けて、ということになりそうですわ。これから皇城でさまざまなお付き合いを経験してゆく上で、まずは最上かと存じます」
この前、皇子から皇后陛下が招待してくださるという話を聞いたばかり。執務室でお兄様やうちの幹部の皆さんも聞いている前での言葉だったから、確度はかなり高い。
お兄様みたいに幼い頃から皇子の遊び相手として皇城に出入りしていた、というのが一番ステータスが高いんだと思いますが、そこは私はもうリカバリー効かないので。皇城にただ連れて行ってもらうのではなく、皇后陛下からのじきじきのお招きを受けて初めて登城した、というほうが箔がつくはず。今まで皇城に行ったことがないという災いが、転じてむしろ福に化せるかなあと。
「そうだな、いつもお前は賢い」
アレクセイは頷いた。
「そして強くなった。皇都に来たばかりの頃には、皇城に近付くことすら考えられないようだったが……今では、あの頃が嘘のようだ」
ーーはっ……!
兄の言葉で、エカテリーナは大変なことに気付いた。
気付いたというか、思い出した。
そうだった。前世の記憶を取り戻したばかりの頃、破滅フラグが立つのが怖くて、皇室とか皇城とか、とにかく避けようとしていたんだった!
すっかりさっぱり忘れてた!
考えてみれば、この舞踏会は乙女ゲームでも大きなイベントだったはず。それなのに、破滅フラグを折らなきゃとか、全然考えてなかったわ。皇子がパートナーになってほしいと申し込んでくれた時にちょっとは考えた気はするけど、その後はドレス難民な女子たちへのドレス斡旋やら、パートナー詐欺師への対策やらで忙しくて、正直それどころじゃなかったもんなー。
……あ、急にドキドキしてきた。
でも今では、ゲームでの舞踏会でキャラクターがどう動いて何が起きたかすら、あまり思い出せなくなってしまっている。
それでも断罪破滅への恐怖感はあるけど、なんというか非論理的な、お化けを怖がるみたいな気持ちで……それよりも今の現実、ユールノヴァ公爵家の一員として自分がどうあるべきかとか、大切な人たちのために何ができるかとか、そういうことのほうが、どうしても重要に思える。
私は、この世界で生きているんだもの。
思えばあの頃、前世の記憶を取り戻したばかりの頃は、皇子や皇室に近付かないのが破滅フラグ対策!って本気で思ってて……単純だったなあ。
公爵令嬢として過ごすようになってまだ数ヶ月だけど、それでももう、よく解る。近付かないで生きていくなんて無理だし、そうはしたくない。
ユールノヴァ公爵家のために、皇室と友好な関係を築くのは公爵令嬢として重要な責務。それでなくても、皇帝陛下も皇后陛下も尊敬できる主君なんだから。公爵であるお兄様の側にいるおかげで、皇国が平和な大国であり続けるために両陛下がどれほど力を尽くしているかがうかがい知れて、感謝と忠誠心が自然と心に根付いている。
公爵家の一員として、私も微力ながら、共に皇国に尽くしたい。
……なんだけど、皇子にパートナーに申し込まれてフリーズしちゃったりするのは、何なんだろうなー。ずっと皇子のこと、破滅フラグの化身呼ばわりしてたから?条件反射?パブロフの犬?
皇子のほうが時々わんこに見えるのに。蓄音機の前で首をかしげているアレに。
いや蓄音機のアレは置いといて。
ゲームの中のエカテリーナと同じことが自分の身に必ず起きると信じるのは、今ではあまりに難しいのだけど。
ゲームと同じではなく。
ずっと考えてきた気がする。前世で得たゲームの展開を、今生の日々に当てはめると、どういう意味を帯びてくるのかを。
ゲームでの破滅の裏にはおそらく、ユールマグナの暗躍があった。
そう。ここはゲームのような、単純な分岐選択で結果が変わる世界ではないけれど、それでもゲームで起きた破滅は起こらないとは言い切れない。今の現実で水面下に潜む見えない悪意によって、お兄様と私がすべてを失ってしまう可能性は、皆無ではない。
そして今、この魔法学園では、水面下で分断が進んでいる。一年生と三年生の多くはユールノヴァ、二年生の多くはユールマグナ。そういう派閥化で、割れつつある。
……この舞踏会で、マグナが動く可能性はあるだろうか。
ユールマグナ分家の色気美人、ザミラの笑みが頭をかすめて、エカテリーナははっとした。
セミョーンのパートナー詐欺騒ぎはもしや、こちらの注意を引き付けるのが目的だったのでは。あの件に気を取られている隙に、裏で何かを仕掛けていた?
だとしたら、してやられたことにーー。
いや、とエカテリーナは思い直す。
あの騒ぎでは、こちらも得るものはあった。ナルス家との繋がりは、きっとユールノヴァの益になる。
でも、舞踏会で何かが起きる可能性はある。
ゲームを、ゲームにすぎないと片付けて恐れを振り払うのではなく。
恐れて、備えよう。
お兄様を破滅なんてさせません。
そして、過労死からも守ってみせます!
エカテリーナはアレクセイを見上げて、微笑んだ。
「はい、お兄様。わたくしは、強くなりましたの。これからも、もっと強くなりますわ。そうして、お兄様と我がユールノヴァ家を、必ずやお守りいたします」
「気負わなくていいんだよ。お前はすでに、ユールノヴァの守護女神なのだから」
あ……お兄様に微笑ましそうな顔をされてしまった。