「エカテリーナ」
黄昏空から視線を下ろして、ミハイルが微笑んだ。
ついでに表情からも黄昏が消えて、彼らしいロイヤルスマイルに変わっているーー鍛え抜いた表情筋の、反射運動かもしれないが。
「その……アレクセイみたいには言えないけど、僕も、君は本当にとても綺麗だと思うよ」
そう言った時には、鍛え抜いたはずの表情筋の反射運動はもろくも崩れて、ミハイルは少し赤くなっていた。
「ありがとう存じます。ミハイル様も、今宵は一段と素敵ですわ」
エカテリーナはにっこり笑う。
実際、今夜のミハイルは、いつもと少し雰囲気を変えていた。
宴でのミハイルの衣装といえば、白と青。いつもそこに金モールなどで、華麗な装飾が施されている。
若々しく明るく、皇国の皇子にふさわしいロイヤル感に満ちているのだが、それだけに印象が大きくは変わらない。つまり変わり映えしない感もある。
しかし今夜の彼の衣装は、白と……黒だった。
基調は白。白地に白で植物文様が織り出された、素晴らしい絹織物だ。
襟元から覗くつややかなシルクのシャツは黒。襟元に巻いているのは、タイでもスカーフでもないその中間の、前世ではクラバットと呼ばれていたものだが、それも黒。
唯一、クラバットを留めているタイピンだけが、サファイアで皇国の第一皇子だけに許される青蝶の紋章を象った金細工で、いつものミハイルの色彩である青と金だ。
髪型さえ、しばらく長めにしていたのを短くして、シャープな感じになっていた。
全体にシックで、大人っぽい印象だ。背が高くなったこともあって、十六歳には見えない。
で、エカテリーナは、たいへん微笑ましく思っていた。
うんうん、大人っぽい格好に憧れるお年頃だよね!
皇子ってすでに中身がかなり大人で、アラサーも脱帽だよってしょっちゅう思っている気がするけど、こういう年相応なところもちゃんとあるんだなあ。
思えば、普段は皇子がパーティーに参加するのは、公務みたいなものなんだろう。ユールノヴァ領での歓迎の宴だって、めいっぱい政治利用させてもらったし。だから、皆がイメージするロイヤルプリンスな衣装を着るのも、業務の一環だよね。制服みたいな。
でもこの舞踏会では、生徒の一人として参加できる。普段は着られないような服を着られる、稀な機会。
……それどころか、もしかしたら君はこの学園生活の他には、着たい服を自由に着られる時は、ないのかもしれない……。
そりゃ、冒険するよね!
まあちょっと、君は周りの同級生たちと同じ、年相応の経験を求めていると思っていたから、その路線は意外だったりはしたんだけれど。
お姉さんは君を応援するよ。マジで似合ってるし!
そういう気持ちから、今宵は一段と素敵、とミハイルを褒めたエカテリーナの声音には熱意がこもっていて、ミハイルは嬉しそうな表情になったのだが……こういう内心を知ったら、たいへん微妙な気持ちになったことだろう。
ミハイルが大人っぽく装ってきたのは誰のためか。
アレクセイへの対抗心とか、あれくらい大人っぽく落ち着きがあるタイプが好ましいんだろうかとか、それはもうあれこれ考えた末の選択であることに、さっぱり気付かないのがエカテリーナなのであった。
そして。
「エカテリーナ様……」
おずおずと声がかかり、エカテリーナはぱっと顔を輝かせた。
「フローラ様!」
寮の扉から、白を基調とした清楚なドレスに身を包んだ、花の女神が現れる。
晩秋の魔法学園に、花盛りの桜が咲き誇った。
フローラのドレスは、祖母アレクサンドラの遺品のひとつ。
毎週ドレスを注文するほどの浪費家だった祖母は、死後、広間を埋め尽くすほど大量の衣装を遺した。初めて見た時には、不気味な怨念が漂うようにすら見えたものだ。
それらのドレスの一部を、エカテリーナは公爵邸でのガーデンパーティーにやって来た同級生たちに、お好きなものをお持ちになって、とプレゼントした。若く明るい少女たちが歓喜して見て回る中で怨念が雲散霧消するのを見て、『バーゲンセール浄化。わはは』とか思いながら。
その時に、慎ましいフローラは遠慮して手を出さないだろう……と思って、あらかじめフローラに似合いそうなものをエカテリーナが選んでおいたのが、今日のドレスだった。
それがまさかの、お針子だったフローラの母親が縫い上げたものだったという、なんとも数奇な巡り合わせが判明して驚愕したのはいい思い出だ。
基本の形はシンプルで、スカートの広がりも抑えぎみ。百合のように広がった両袖とあわせて、少し中世めいた古風さもあるデザインだ。スカートと襟の部分に、銀糸で薄く細かく編まれたきらめきそのもののような、素晴らしいレースが重ねられている。
見るからに豪華というものではないが、不思議と印象的なのは、仕立ての素晴らしさのせいだ。スカートのひだ、広がる袖のライン、最高に美しい形に縫い上げられている。フローラの母がいかに優れた技量の持ち主だったかが、これを見ただけで解るというものだった。
元は銀糸のレースのあちこちに、小さなアクアマリンが縫い付けられていた。祖母の髪が水色だったので、色を合わせるためのものだ。今回、それは取り外されている。
変わって、きらめくレース一面に、花の盛りと咲き誇る桜の花と花びらの刺繍が施されていた。
桜の刺繍は、チェルニー男爵夫人の手になるものだそうだ。
母を亡くして天涯孤独になってしまったフローラを引き取ってくれた男爵夫妻は、おっとりした老夫婦で、フローラを孫のように可愛がっているそうだ。どんな経緯があったのか、領地は売ってしまって皇都の下町で暮らしている。暮らしに困っているわけではないが、夫人は趣味と実益を兼ねて刺繍を内職にしていて、その関係でフローラの母と知り合い、親しい友人になった。
最高級のドレスを縫えるお針子だったフローラの母と、仕事の関係で出会った。ということは、チェルニー夫人の刺繍の技量もまた、最高級のドレスを扱えるほど卓越したものということだ。
薄く透けるレース一面に、本物さながらの花の刺繍を施す労力が、どれほどのものか。
けれど男爵夫人は、可愛い養女のため、友人の形見とも言えるドレスに、持てる技術のすべてと数ヶ月に亘る時間を惜しみなく注いだに違いなかった。
フローラが歩みを進めるにつれて、銀のきらめきの中で風にそよぐように桜花が揺れ、花びらが舞う。レースは女神の光輝のよう、桜は女神を慕って宙を舞い光輝を彩っているかのようだ。
桜色の髪を編み込みにしたフローラはいつもより大人っぽく、それでも初々しく愛らしく、彼女の美しさに女子寮を囲む男子たちから感嘆の声が上がった。
ふふふ、どうだフローラちゃん可愛かろう!
思わず内心でドヤるエカテリーナである。
なおエカテリーナが現れた時にも男子たちはどよめいていたのだが、アレクセイのことばかり気にしていて本人はさっぱり気付いていなかったのだったりする。ブラコンなので。
それにしても、今回は衣装の趣向を合わせようとしたわけじゃないのに、二人とも刺繍がメインのドレスになるって、巡り合わせというか。ついさっき、私の部屋で一緒に支度する時に初めてお互いのドレスを見て、驚いたもんね。
シンクロニシティって言葉があったっけ。確か、ユング心理学……だったような?意味ある偶然の一致、みたいな感じ。それが起きる要素のひとつが、波長が合う人同士って何かで読んだような。
だからこれは、私とフローラちゃんは波長が合うという証拠ですね!
思えばヒロインと悪役令嬢って、カードの裏と表みたいな関係だもんなあ。なんかこんなこと、久しぶりに思ったけど。
「フローラ様、素敵ですわ」
そう声をかけて、歩み寄ろうとして、エカテリーナははたと気付いた。自分がまだ兄とくっついたままであることに。
わー、どうしよう。フローラちゃんが気恥ずかしそうだから手を握ってあげたいんだけど、離れるとお兄様は絶対に私に上着を貸してくれるから、お兄様が寒い。どうすれば!
ていうかコレ公爵家の威厳的にNGだったんじゃ?
たいへん今さらなことでエカテリーナが慌てた時。
すすっとメイドのミナが近付いてきて、エカテリーナにショールを差し出した。
「まあミナ、ありがとう。いつも気が利くこと」
喜ぶエカテリーナの肩にショールを着せかけて、ミナはすすっと下がる。腕の中から妹がいなくなってアレクセイは微妙な表情だが、妹の要望を拒むことはないのだった。
で、エカテリーナはいそいそとフローラの側に行って手を取る。
「お美しゅうございましてよ」
「ありがとうございます。でもエカテリーナ様のほうがずっとお綺麗です」
いやいやフローラちゃんのほうがーー。
と力説しかけたが、そこでエカテリーナはこの世界の常識を思い出した。舞踏会に参加する令嬢の美しさを一番に讃えるべきは、パートナーなのだった。
えっと、私は一緒に支度している時から褒めてたからノーカンで!
エカテリーナは、ちらっ、とミハイルに目を向ける。
ミハイルは微笑んだ。
「素敵なドレスだね。君によく似合っている」
「ありがとうございます」
母と養母が丹精したドレスへの褒め言葉に、フローラは本当に嬉しそうな笑顔になった。
無難も極まれりの賞賛だが、そうか、とエカテリーナは納得している。
そもそもフローラとミハイルは、便宜的なパートナーだ。
エカテリーナがミハイルのパートナーになるのを断ってアレクセイとの参加を望んだことで、ミハイルは適切なパートナーが見当たらず、舞踏会には不参加となりかけた。それではエカテリーナが気にやむだろうと、フローラがミハイルにパートナーにしてほしいと言い出してパートナーとなったもの。
そして二人は、この魔法学園で最も身分の差が大きい。身分が低いためにフローラは最初のうちいじめを受けていて、ミハイルのパートナーになることでそれが再燃してしまうのでは、とエカテリーナも心配していた。
ミハイルもそこを心配して、わざとフローラ自身ではなく、ドレスだけを褒める言い方をしたのだろう。
そういえば二人の衣装、どちらも白が基調だが……白と桜色、白と黒。素材の違いもあって、微妙に、合わない。
けれど、これはこれで、いいのかもしれない。
そう思って、エカテリーナはにっこり笑った。
「今宵は、生涯にたった三度しかない魔法学園の舞踏会の夜。楽しい思い出にいたしましょう。きっと、素敵な一夜になりますわ」
エカテリーナは、そう、信じていたのだ。
この時には。