舞踏会は、魔法学園の一角にある、その会場とするためだけに建てられた舞踏会場で行われる。
普段は訪れる者とてなくひっそりと佇む古風な様式の小館は、年に一度のこの日のみ、華やかに光輝くのだ。
生徒会が案じていた天候は、快晴の上ほぼ無風と、理想的なものとなった。生徒会だけでなく、生徒や学園関係者など、多くの人が祈ったためかもしれない。そのおかげでランタンの演出は実施できることになり、各寮から舞踏会会場へ通じる小道にも、たくさんの灯りが用意されていた。
普段は厳重に禁止されている、女子寮周辺への男子生徒の立ち入りが、この日のみ許される。ドレス姿の女子を、舞踏会場までエスコートするためだ。
学園外のパーティなら、男性は馬車でパートナーの家へ迎えに行き、会場まで同乗して行くもの。しかし今はどちらも寮生活で、舞踏会場は馬車を使えない学園内にあるため、二人は歩いて行くことになる。貴族としてレアな経験だ。
男子の一団が女子寮の前にたむろするという、この日以外あり得ない状況の中、寮の扉が開くたび美しく装った女子が現れる。皆、上気した中にも少し不安げに、男子の中に自分のパートナーを探す。目が合うと、ぱっと顔を輝かせる。
差し出された腕に手を委ねて、会場までの道のりをエスコートされて歩くのだ。
仲良く話しながら歩く二人もいれば、うれし恥ずかし緊張しで互いに言葉が出てこず黙々と歩く、初々しい二人もいる。
短いながら、一生思い出に残る、甘酸っぱい道行きである。
……なお毎年、いくつもある女子寮のどれにパートナーがいるのか把握できず、男子が間違った寮に行ってしまってお互い待ちぼうけ――という悲喜劇が、一定数は発生してしまうらしい。
その対策として、寮の前に集う男子生徒の中を寮母が見回り、彼らのパートナーが確かにこの寮の女子であるかを確かめる。別の寮と間違えていれば行くべき先を教えて、悲劇を防止するわけだ。
寮母は寮の管理人。若い貴族女子たちを統率する立場であるから、彼女たちの母親くらいの年齢の下級貴族の女性が多い。人柄も、酸いも甘いも噛み分けたといった感じの、人情の機微に通じたタイプが選ばれている。
男子生徒たちなど、幼児並みに次々あしらってゆく――はずなのだが。
とある寮でのみ、寮母がとうていあしらうことなどできない男子生徒を横目に、緊張というか高揚というかな表情を隠せずにいるのだった。
「建物は男子寮と変わらないようなのに、不思議と違って見えるものだね」
爽やかなテノールで言うのは、皇子ミハイル。
「植生には多少の違いがあるようです」
響きの良いバリトンで生真面目に答えたのは、ユールノヴァ公爵アレクセイ。
眉目秀麗な二人が並ぶと、まばゆいばかりだ。他の男子も、舞踏会のために華やかな装いをしているのだが、やはりレベルが違う。
「きっと男子寮より花がたくさん植えられているんだろうな、この季節だとわからないけど……。でも気のせいか、甘い香りがするみたいだ」
そう言いながら、ミハイルは寮の最上階を振り仰いでいる。そこにある特別室では、エカテリーナとフローラが身支度を整えているはずなのだった。
まさにその時。その最上階の灯りが、ふっと消えた。
程なくして、寮の扉が開く。
開けたのは、メイドのミナだ。大きく扉を開ききると、脇へ避けて控えた。
そしてーー現れる。
開け放たれた扉から、しずしずとエカテリーナが歩み出た。伏せていた目を上げればそこにアレクセイがいて、目を合わせ艶然と微笑む。
「お兄様、お迎えありがとう存じます」
その身を包むシンプルなラインの衣装を、螺旋状に取り巻くように蔓薔薇が飾り、左手には大輪の青薔薇が輝いていた。
舞踏会は夜会。
皇国では、昼の催しはシンプルで品位ある衣装が良しとされ、貴族女性たちはそのぶん夜会で豪華なドレスを身にまとう。
公爵令嬢にして公爵家の女主人たるエカテリーナは、後世になれば博物館に収蔵されるクラスの、豪奢を極めた宝飾品で身を飾るものだ。それが、公爵という身分に連なる者の、普通なのだ。
しかしエカテリーナは、この学園での舞踏会では、あまりに高価なものは使いたくないと伝えた。
学園では皆と同じ生徒の一人。身分や財力をひけらかすようなことはしたくない。前世日本人の感覚として、級友は級友。そこに身分制社会の絶大な経済格差を持ち込んで見せ付けるなんて、耐えられない。
その要望に、ドレスデザイナーのカミラ・クローチェは最初は反対した。彼女としては、普段は他の生徒と同じ制服を着ているからこそ、舞踏会ではエカテリーナに、本来の身分を示して華やかに君臨してほしかったのだ。
が、その意見をころりと変えさせたのが、レフが作成したブレスレットだった。
ほんとにね、あらためて、レフの才能はすごいです。
今回、大きな宝石とかの、前世で数千万円から億単位のお値段がするようなものは使いたくないと言って、ガラスの装飾品を選んだわけですが。
レフのブレスレットだって、後世ですっごい価値が出る可能性は高いような気がしてます……。
だって、見た瞬間に思い出したもの。アール・ヌーヴォーの傑作!
ベル・エポックの大女優、サラ・ベルナールのブレスレット。デザインは確か、かのアルフォンス・ミュシャが手がけたのであったはず。まああれとはデザインは全然違うんですが、手首というより手の甲を大胆に飾り、指輪と繋がっているところが同じなので。
サラ・ベルナールのブレスレットは蛇を象っていて、エナメルで装飾された蛇の頭部が手の甲を飾り、細い鎖で指輪と繋がっていて、蛇の体が手首に巻き付くような感じだったと思う。
レフのブレスレットは、手の甲に大輪のガラスの青薔薇が輝く。手の甲を覆うほどに大きく、中指・親指・小指にはめる金の指輪と細い鎖で繋がっている。指輪もまた薔薇の意匠になってます。
青薔薇は手首に三重に絡みつく金の蔓から咲き、小さな青薔薇と緑の葉が散りばめられた蔓はゆるやかに腕をもう一巻きして肘近くまでを飾る……。
自分の腕に、輝くような青薔薇が咲いている。目をやるたびにうっとりしますよ!
デザイナーのカミラさん、これを見た瞬間に雷に打たれたような顔をして、それからすごい勢いでデザイン画を描き上げてくれました。
ドレスの色は今回も天上の青。春空色の淡い青と、夏の天頂色の明るい青の組み合わせだ。
エカテリーナはラピスラズリのような宵闇色を身に着けることが多いが、学校行事である今回は、学生にふさわしい明るい色を望んだ。
それをカミラは、ドレスの右半身と左半身にきっぱりと使い分けた。
また、上半身と下半身で左右の色を入れ替えており、ドレスの形がシンプルなだけに、大胆な色使いがインパクト抜群。
さらにそこに、最高の職人が手掛けた絵画さながらに精緻な刺繍で、薔薇が描かれていた。
ドレスの裳裾をぐるりと、青薔薇が彩る。
右半身と左半身、生地の色が切り替わるところで、刺繍の色合いも変わる。春空色の生地には夏の天頂色から宵闇色までのさまざまな濃い青の色調を使い、夏の天頂色の生地では春空色からほぼ白に近い青の色調。生地の切り替わりで、一輪の薔薇の花弁の色が途中で切り替わっている箇所さえある。
青だけでなく、惜しげなく使われた金糸銀糸が薔薇をきらめかせていた。
裳裾から蔓薔薇が伸び上がって、エカテリーナの身を螺旋状に取り巻いている。スカートをぐるりと巡ってウエストへ、さらに上半身では胸元で大きく広がり、首周りをぐるりと飾って、最後にこれも精緻に造られた青と金糸のレースの薔薇が縫い付けられた襟元まで達する。
形状はシンプルなドレスだが、袖だけは左はブレスレットを魅せるために短く、右は長いアシンメトリー。右袖にも刺繍がほどこされ、ブレスレットとそっくりな意匠が刺繍されている。
レフのブレスレットへの、カミラのオマージュかもしれなかった。
皇国では、ガラスのアクセサリーは決して贅沢品とはみなされない。エカテリーナの希望通り、富を見せつけるような衣装ではない。
が結果として、下手に宝石で飾るよりも、よほど人目を引くドレスに仕上がったのである。
なんとか髪型だけは、すべて結い上げるのではなくポニーテールにしてゆるく巻くだけにしたところが、学生らしさだった。
……結局、公爵家の財産あればこそなんですよ。
私が当初言ってたことと、結果が違っちゃってますよ。
でも!このドレスにダメ出しなんてできないー!
惚れ惚れするほど綺麗なんだもーん!
そして何より!私、お兄様のパートナーなんだもの!
お兄様に綺麗って思ってほしい!
エカテリーナを見つめていたアレクセイは、ふ、と微笑んだ。
「美しい」
歩み寄り、妹の纖手を己の手に取る。
「美しい。美しい」
手を握り、そっと力を込めて、三度繰り返した。
「薔薇は花々の女王だが……その女王すらかろうじて足下に侍り讃えることを許される、端女にすぎないかのようだ。
陽が落ちきる前で良かった。もしも星々がお前の姿を目にしたなら、恋焦がれてことごとく天から流れ落ちてしまうだろう。
今宵のお前は、夜空から星座を消し去るほどに美しいよ」
「お兄様ったら」
今日もさすがですお兄様!
褒めてもらえて嬉しい。良かった〜。
お兄様シスコンだからどんな格好でも褒めてくれるだろうけど、私がお兄様にふさわしいくらい綺麗でいたいんだもの。
実は今の季節、短い袖で戸外はかなり厳しいんですが、ショールを羽織ったりするとブレスレットや刺繍が見えなくなっちゃうからそのまま出てきちゃいました。ファッションは気合いだ!
と、アレクセイが上衣を脱いだ。
白を基調とし、銀糸で刺繍が施されたそれは、袖の折り返しが左右で春空色と夏の天頂色のアシンメトリー、襟元に青と金糸のレースの薔薇が飾られて、さりげなくエカテリーナの衣装と調和している。
エカテリーナの肩にふわりと上衣を掛けて、アレクセイは微笑んだ。
「会場までこれを着ていなさい。天に星座が有り続けるために、お前を少し隠さなければ」
兄の温もりが残る上衣に正直ほっとしたものの、エカテリーナはかぶりを振る。
「お兄様のお身が案じられますわ。どうぞご自分で」
「私は鍛えている。何ほどのこともないよ」
そう返されて、エカテリーナは少し考えーーにっこり笑った。
そして上衣をアレクセイの肩に掛けると、兄の腕を取ってぎゅっと抱きついた。くっ付くことで、上衣が自分にも掛かるようにして。
「こうすれば、お互い温かくいられましてよ」
アレクセイは目を細めた。
「ああ、そうだな。こうして行こう」
わーい。
喜んだ後で、エカテリーナは気付く。
近くで、ミハイルが黄昏の空を仰いでいた。
皇子ってば、流れ星でも探してるのかな。それにはまだ空は明るいけど。
お兄様の美辞麗句を本気にしてないよね?星がみんな流れてくるなんて、そんなわけないからね?
などと思いつつ、ミハイルの面持ちが黄昏ているように見えて、なんでだろうと内心で首を傾げるエカテリーナであった。