「エカテリーナ。私は殿下と少し話があるが、お前はもう寮に帰りなさい。疲れているだろう、ゆっくり休むべきだ」
「疲れるようなことは、何もありませんでしたのよ。ですけれど、お兄様がそうおっしゃるなら、わたくしは何事も仰せの通りにいたします」
「いい子だ」
そんな平常運転な会話があり、ミハイルに挨拶をしたエカテリーナは、控えていたフローラと手を取り合って執務室を辞した。
廊下へ出てから、ふと思い出す。そういえば、ハリトーンがミハイル殿下にお会いできましたと言っていたのだった。いつ、なぜ、会ったのか、疑問に思ったのにミハイルに聞いてみるのを忘れてしまった。
まあ、いいか。
すぐに、エカテリーナは気持ちを切り替える。
これからも機会はいくらでもあるし、それほど重要なことではないんだもの。
エカテリーナとフローラを送り出したイヴァンが、そっとドアを閉めた。
二人の少女を見送った、皇子ミハイルと公爵アレクセイが目を合わせる。
「ひとまず、片が付いたようで良かった。二人には、心置きなく、舞踏会を楽しんでほしいからね」
ミハイルの言葉に、アレクセイも首肯した。
「あの子はここしばらく、他の者たちのために忙しく過ごしておりました。当日はただ楽しんでくれることを願っております」
「うん……エカテリーナは君の忙しさは気にするのに、自分の忙しさには無頓着だよね」
苦笑しつつミハイルが言う。エカテリーナが聞いたら、『魂に染み付いた社畜を見抜かれている!』と戦慄したかもしれない。
「彼女たちのドレス姿を見るのはしばらくぶりだけど、さぞきれいだろうな。君がパーティを好まないのは知っているけど、パートナーの美しい姿が見られると思うと、舞踏会が待ち遠しく思えないかい?」
ミハイルの問いに、アレクセイはただ静かに微笑む。
ミハイルのパートナーはフローラ、アレクセイのパートナーはエカテリーナだ。二人とも魔法学園屈指の美人だから、ミハイルの問いに学園の生徒たちはこぞって頷くだろう。
と言いつつ、ミハイルが本当に楽しみにしているのは、エカテリーナのドレス姿に違いない。ミハイルはエカテリーナにパートナーになってほしいと申し込み、兄と参加したいと断られた身なのだから。ある意味ミハイルとアレクセイは、舞踏会のパートナーに関しては、敗者と勝者の関係である。
とはいえ二人は将来の主君と臣下であったり、来年の舞踏会ではアレクセイは卒業していてエカテリーナのパートナーはミハイルが予約済みであったり、両者の勝敗はかなりややこしいのだった。
よって、ミハイルの言葉には応じることなく、アレクセイは言う。
「ナルス家のこと、ご配慮に感謝いたします」
ミハイルは微笑した。
「配慮なんて、僕は何もしていないよ」
「皇国中興の祖ヴィクトル雷帝は、皇国の中枢たる皇都の治安を守る、優れた機構を創り上げられたと承知しております」
淡々とした声音で、アレクセイは語る。
話が変わったようでいて、変わってはいないのだった。
「ナルス家はその機構の一環でありましょう。初代から、元盗賊ならではの配下たちを使い、皇都警護隊では目の届かぬ下町の秩序を維持してきた。また開祖の像の前で祈れば幸運を得られる、像の台座に恨む相手を書いた紙を入れれば罰を与えられるといった風説を流し、彼らの声、要望や、福祉制度の問題点、裏の世界の勢力図などさまざまなことを把握し、問題の芽を早期に摘むことに貢献してきたようです」
エカテリーナがこの言葉を聞いたなら、ああ、と内心で声を上げ、あれこれ連想したかもしれない。
例えば、江戸時代の「岡っ引き」「目明かし」などと呼ばれた存在。フィクションでは正義の味方のように描かれることが多いが、始まりは軽犯罪の罪人を目こぼしして司法の手先としたものと言われていて、のちのちも裏社会に片足を踏み入れつつ奉行所のためにも働く、グレーな立場の者たちだったとされている。
また例えば、シャーロック・ホームズに登場したベイカー街ストリートイレギュラーズ。社会の階層とは離れた立場にいる人々が、犯罪捜査に一役買っていた。こちらは創作ではあるが、かの物語は名探偵の実在を信じる人から依頼が殺到するほど、説得力をもって受け入れられた。
おそらく洋の東西を問わず、それどころか異世界でも、司法がそうした人々と結び付くのは歴史の一定の時期においては必然だったのだろう。
なおもうひとつ、恨みを晴らす話からは、エカテリーナは間違いなく、有名テレビドラマ必殺なんちゃらを連想したと思われる。
「ナルス家が代々、表には出ない形で皇都の平穏を守る家柄であるならば、ユールノヴァとしていかに関わるべきかと考えておりました」
とアレクセイは言った。
当たり障りのない言い回しをしているが、アレクセイと側近たちとしては、ナルス家の情報網をユールマグナの横領調査に使う思惑があったのだ。
しかしハリトーンと接触し、そうしたナルス家の真相と現状を知って、さすがのアレクセイと側近たちも迷った。
皇都は、皇室の直轄地。その皇都の治安維持機構とあれば、三大公爵家といえども自家の事情で私用すべきではない。
だがその原理原則で判断もしきれない。現在のナルス家は、その役目を果たせていないからだ。
先代から役目を引き継いだ夫人は、若くして亡くなっている。夫には早々に見切りをつけていたようで、ナルス家のそういう役割については伝えてもいなかったようだ。息子たちはまだ若く、ハリトーンへの後継ぎ教育も道半ばだっただろう。そのためハリトーンは、配下たちの支持は厚いものの、魔法学園に入学できるだけの魔力を持たないこともあって、父親と弟に足を引っ張られて後継ぎの座も揺らぐ有様だ。
今は、雷帝の機構としてナルス家は機能しきれていないどころか下手をすれば、存続が危うい。それは回避できたとしても、配下の抑えがきかなくなって初代から受け継がれてきた役割が失われてしまう恐れもある。
ユールノヴァが介入しても、一時的にハリトーンの後ろ盾となって彼が家を守る助けになりさえすれば皇室への貢献となり、咎めを受けることなくナルス家を使える可能性はある。
そもそも機構の一環と言っても、公的な存在ではないため、ナルス家と皇室の結びつきがどの程度のものか不明だ。そこは、ハリトーンがまだ母親から引き継げていなかった部分だった。
――そこに現れたのが、ミハイルである。
「君が皇都の下町、それも裏通りに詳しくなる日が来るなんて、意外だなあ」
明るい笑顔で、ミハイルは言った。
「知見の広い側近がおりますので。殿下こそ、下町に造詣がおありとは」
アレクセイがさらりと返す。ノヴァクのことだが、アレクセイがこんな風に部下への評価の言葉を自然に出すことは、以前はなかった。これは、なにかと人を全力で褒めるエカテリーナの影響かもしれない。
ミハイルの笑みは苦笑に変わった。
「造詣があるとはとても言えない、足を踏み入れたこともないからね。一度でいいから、行ってみたいと思っている。自分の目で見たことがあるかないかで、何かが変わるだろうから」
「それゆえ、ナルス家の嫡男にお声をかけられたのですか」
ユールノヴァがナルス家の扱いを検討していたその頃に、ルカがハリトーンの前に現れ、極秘裏にミハイルのもとへ案内したのだ。
非公式きわまる対面だったが、それがかえってドラマチックな状況になり、雷帝に仕えた先祖のようだとハリトーンは大いに感激したのだった。
「僕が下町に行く時には、君にも一緒に来てほしいな。それまで、ハリトーンをよろしく」
ハリトーンにナルス家を継がせるなら、ミハイル自身がハリトーンを庇護すればいい。しかしミハイルは、セミョーンを抑えて学園で起きている問題を解決してくれることを期待している、という言葉をかけ、ユールノヴァとも接触していると知っていると告げただけだった。
ハリトーンは、ミハイルとの対面が適ったのはアレクセイのおかげだと思っている。ミハイルはそう告げたわけではないが、そう思わせたわけだ。
そのおかげで、ハリトーンはユールノヴァの庇護を得ること、ユールノヴァに協力することに、疑問を感じていない。皇室は表立ってナルス家との繋がりを示すことができないため、ユールノヴァが間を取り持ってくれている。ユールノヴァのために配下を動かすのは、皇室のためにもなること。そう思っている。
ネオンブルーの瞳で、アレクセイはミハイルを見る。
ミハイルは、微笑んでいる。
『それまで、ハリトーンをよろしく』
期間の制限付きで、ナルス家を使うことを許す。そういう言葉だ。
ユールノヴァの状況、思惑を、どこまで掴んでいるのか。
「……殿下が下町へ赴かれる時には、私も随行いたしましょう」
アレクセイは言った。
ユールノヴァ家の執務室を後にして、寮へ戻るミハイルに付き従いながら、従僕のルカはいつもにも増して誇らしい気持ちで主君の背中を見守っていた。
舞踏会に絡んで毎年のように発生する詐欺師の問題にエカテリーナが対処しているのは、早々に解っていた。ので、ミハイルの命でルカが情報収集に動いたのだ。問題の人物がナルス家の者と知って、すぐ要注意と判断した。ユールマグナの影がちらつくのも、確証までは掴めなかったが把握していた。
貴族の権力争いは、ルカには関わりのないことだ。それでも皇子の護衛として、ユールノヴァとユールマグナが陰に陽に争っていることは承知している。それをどう捌くかが、やがては玉座に登るあるじの、未来の治世を左右するほどの問題であることも。
あるじは今はまだ、権限を持たない身。自分だけの考えで動くことは許されず、さりとていちいち皇帝陛下にお伺いを立てていては失望される。二つの大貴族のどちらを選ぶと、明確に示すことはまだできない立場だ。
その状況で、すでに当主の地位にあるユールノヴァ公爵と、あるじは可能な限りうまく渡り合ったのではないだろうか。ハリトーンをユールノヴァに預けたのは越権すれすれではあるが、ナルス家を存続させる現実的な解決方法だから、陛下は良しとされるはず。
そして、ハリトーンから、ユールノヴァとユールマグナの間で何が起きているのか、情報を得ることもできるようになるだろう。
聡明で有能なこの方は、必ず、よき君主となられるだろう。
そう、あらためてルカが思った時。
人気のない廊下の端で、ミハイルが肩を落としてため息をついた。
「いいなあ、アレクセイは……僕も、あんな風にエカテリーナに抱き付かれてみたい」
不意打ちはやめてほしいと思いながら、爆笑するのをこらえるために、頬の内側を思いきり噛み締めたルカであった。