学園内の執務室でミハイルに会うのは、これが初めてだ。
ミハイルはアレクセイの執務机と向かい合う形で置かれた、立派な椅子に腰掛けている。こんな椅子この部屋にあったかしら、と頭の隅で疑問に思うエカテリーナである。
おそらくはミハイルが事前に来ることを知らせていて、アレクセイの側近たちが急いで公爵邸から取り寄せたのだろう。ミハイルの背後に従僕のルカが控えているあたりで、そんな気がした。
さすがの気遣いというか……。しかしエカテリーナも今は、かなり理解できる。皇子たる彼が突然現れると、来られた側がどれだけ大変なことになるか。
以前ミハイルは、エカテリーナのクラスメイトに紛れ込んで、突然ユールノヴァ公爵邸に現れたことがある。けれどあれは、今にして思えば迎えるこちらへの影響が最小限で済む、稀な状況だった。ミハイルが紛れ込む衝動に勝てなかったのも、無理はないのかもしれない。
そしてアレクセイは、ミハイルの傍らに立っていた。
これも、今のエカテリーナには理解できる。執務室に皇子を迎えるという状況はかなり特殊で、定まったマナーがあるわけではない。ただ、公爵家の執務室では当主の席が一番の上座、最も身分の高い者の位置だから、皇位継承者ミハイルを前にしてアレクセイが自席に座ると違和感が生じる。だからとミハイルを、公爵家当主の位置に座らせるのは、それもまたおかしい。
したがって、ミハイルを賓客として最上席に座ってもらい、アレクセイは公爵という身分により許される近さでミハイルの傍らに立つ。
これが最適解なのだ。
しかしそんなこんなを放り投げて、エカテリーナは思う。
これはこれで、すごくイイ!
いつか皇子が玉座を受け継いだ時、君主を支える超有能な重臣になること間違いないお兄様の、未来予想図!
良いわ〜イケメン同士の君主と臣下。
本物の玉座は、皇城の謁見の間とかにあるのかしら。その座に着いて、居並ぶ家臣たちに微笑む即位後の皇子。主君の側近くに立って家臣たちをネオンブルーの瞳で睥睨する、重臣となったお兄様。
想像するだけで、白いご飯が三杯はいける!私がこの世界の後世の歴女だったら、この主従の本で本棚埋めるね!あー、お兄様が出てくる歴史書が読める、この世界の後世の歴女が羨ましいわー。
いろいろ悩み事があるせいか、若干テンションがおかしいエカテリーナである。
そんな内心を知るよしもないアレクセイが、エカテリーナを見て微笑み、呼んだ。
「私のエカテリーナ」
そして、両手を広げた。
兄にそうされたら、腕の中に飛び込まないという選択肢はエカテリーナにはない。
いや、今の執務室には賓客がいる。皇国の玉座を受け継ぐ姿を想像した直後に、そんなふるまいを見せるのはいかがなものか。
ーーなどと思ったのは、アレクセイに駆け寄って腕の中に飛び込んだ後のことだった。
「お兄様!」
抱きしめてもらって、自分もぎゅうっと兄に抱きつく。
はー、安心する。お兄様に包んでもらって、温かくて癒やされる。
大丈夫、考えてみたら今さらだから。ユールノヴァ領に皇子が来た時も、目の前でさんざんお兄様に甘えてたから。
なのにいかがなものかなんて思ったのは、お兄様の仕事場で見る皇子がやけに大人っぽくて、将来の主君なんだってあらためて思ったせいだな。入学式の頃にはお子様だったくせにさー。
その、将来の主君が座っているあたりから、ふー………………と、なにやら悲哀のこもった長いため息が聞こえた気もしたのだけれど。
「報告は聞いている。よく頑張ったね」
アレクセイに褒められて、エカテリーナはまたもいろいろと頭から放り投げた。
頑張ったというのは、魔力を使ってセミョーンの逃走を防いだことを言っているのだろう。
「お兄様がいろいろご配慮くださったおかげですわ。ありがとう存じます」
イヴァンを守りに送ってくれたことはもちろん、ハリトーンが駆け付けてきたのも兄のおかげだ。
前もって話してくれなかったのは、何かわけがあるのだろう。
少しくらい情報連携に不足があっても、手厚いサポートでお釣りがきます。情報もサポートもロクにもらえず現地に駆け付けてトラブル対応した前世に比べれば……いや当時の上司とお兄様を、比べること自体が失礼だぞ自分!
本当なら、ここで報告を始めたいところだ。イヴァンから昨日の出来事はすでに伝えられているとしても、先ほど生徒会長から聞いたセミョーンの不可解な記憶の消失など、話しておきたい。
が、それはさすがに、駄目だろう。賓客であり、公爵家の一員ではない、彼の前では。
エカテリーナはアレクセイを見上げ、意思疎通を確認して兄から離れ、にっこり笑ってミハイルに一礼した。
「ご無礼いたしましたわ。ミハイル様、この執務室へようこそ」
「いつもながら仲が良くて何よりだよ。お邪魔をしてすまない」
笑顔でミハイルが答える。それから、少し表情を変えた。
「その……大変だったと聞いたよ」
あー、やっぱり皇子の耳にも届いてるかー。まあ、仕方ないよね。
「ご心配をおかけしたのでしたら、申し訳のう存じますわ」
「君には何の責任もないよ。クラスメイトが決闘を申し込むと言い出したのを、止めるためだったと聞いている。面倒見のいい君なら、放っておけないのは当然だと思う」
めっちゃ詳しく知ってる……。うん、セミョーンと会うことになった直接の理由は、クラスメイトのコルニーリー君が、仮婚約者のアセルちゃんを引っかけた詐欺師に勝負を挑むとか言い出したのを止めるためだった。
コルニーリー君には休み時間に少し話をして、セミョーンとはアセルちゃんについて話をすることはできなかったけど、とにかく不実な人物だった、とだけ伝えた。変な暴走をしないかちょっと心配だったけど、コルニーリー君は妙にすっきりした表情でこう言っていた。
『ありがとう、ユールノヴァ嬢。そもそも僕が解決すべきだったのに、迷惑をかけて申し訳ないよ。もう逃げたりせずに、アセルと話をしてみる』
なんか大人になっててびっくりだったわ。少年三日会わざれば刮目して見よ、って言葉が頭をよぎりましたよ。
と、ミハイルが微笑んだ。
「そのクラスメイトは、夜な夜な剣の特訓をしていたそうだよ。ニコライ・クルイモフが稽古をつけてあげたそうだから、いろいろ成長したんじゃないかな」
ん⁉︎
「そうでしたのね、存じませんでしたわ。ミハイル様は、なぜご存じですの?」
「あ、うん。ニコライから聞いたものだから」
皇子、ニコライさんを知っているのかあ。
って当たり前だわ。クルイモフ家は皇帝陛下の御馬係、ニコライさんはゆくゆくは皇子の御馬係になるわけだから。すでに引き合わされていて当然、なんならすでに皇子の愛馬にニコライさんが関わっていてもおかしくないよね。
でも、なんでニコライさんがコルニーリー君に?あの二人に、接点なんてあるかなあ。ちょっと想像がつかないんだけど。
怪訝そうに眉を寄せたエカテリーナを見て、ミハイルは小さく咳ばらいした。
「その、昨日のことは、僕のクラスでもいろいろ話題になっていて……」
いろいろ……ってことは、芳しくない方向でも話題になったんだろうなー。
私、悪役令嬢だからね。仕方ないよね……。
はっ!そういえばゲームでは断罪破滅する身だった!めっちゃ忘れてた!
も、もしやこれがきっかけで、何かが分岐してしまったり……?いや、ないと思う。ないと思うけど!
突然ぶり返した破滅フラグの恐怖に、動悸が激しくなるエカテリーナである。
その動揺を知ってか知らずか、ミハイルはこう続けた。
「それで、皆に話したんだ。実は僕の母上は在学中に、不埒な男子の企みを阻止しようと、自らその男子と決闘をしたことがあるそうだから……その話をした」
あ!
その話、確かにノヴァクさんが教えてくれた。
マグダレーナ皇后陛下の在学当時にもパートナー詐欺男子がいて、そやつを決闘で叩きのめした後、皇后陛下が舞踏会に男装で参加して被害者女子たち全員のパートナーを務めた……という、超絶男前、イケメントップスターすぎるエピソードと共に!
「そのお話、ノヴァク伯が話してくれましたわ。なんと凛々しいご対応と、感服しておりましたの」
「君はそう言ってくれると思った」
ミハイルの返答からして、批判を浴びることもあるのだろうか。少なくとも当時は、ユールセイン公爵令嬢だった頃のマグダレーナは、それはもうあれこれ言われたに違いない。
それでも決して自分を枉げることのなかった皇后陛下、カッコいい!
……比べると今回の出来事、負けてない?派手さと華が、圧倒的に皇后陛下の逸話のほうが上じゃない?
学園内が皇后陛下の話題で持ちきりになりそう――。
そう思ったところで、はっとしてエカテリーナはミハイルの顔を見た。
ミハイルは微笑んでいる。
かつてのユールセイン公爵令嬢は、今は国の母たる皇后陛下。皇国の臣民たるもの、少なくとも正面切っては、批判することは憚られる。
皇后陛下の若き日のエピソードと、今回のことが重ね合わせて語られたなら、それは……今のユールノヴァ公爵令嬢への、批判を封じてくれるだろう。
皇子……庇ってくれたんだ。
でも、皇后陛下の話を出してしまって大丈夫?
「皇后陛下の逸話と並べていただけるとは、光栄なことですわ。ですが、わたくしなど皆様に守られていただけでしたもの、陛下のなされたこととは比べ物になりません。陛下のお気持ちを害するのではないかと、案じられますの」
「そんな心配は無用だよ。母上は君が気に入っている、『天上の青』もよくドレスに取り入れているしね。近々皇城に招きたいと言っておられたよ」
わーマジで?
でもだよね。賢い皇子が、皇后陛下の意に反して、親の権威を持ち出すなんてことはしないよね。
じゃ、じゃあ、断罪破滅への分岐はやっぱりなくて、学園内での悪評もかなり安心していいってことに!
「本当に、皇后陛下がそのように?なんと嬉しいお言葉でしょう!」
顔を輝かせたエカテリーナに、ミハイルは眩しそうな表情になる。
「皇城に来てくれるかい?」
もちろん、と言いかけて、エカテリーナは傍らの兄を見上げた。
「お兄様、お許しいただけまして?」
きちんと許しをもらおうとする妹に、アレクセイは甘く微笑みかけた。
「もちろんだ。皇后陛下とお前、皇国最高の貴婦人方がそう望むなら、私が否などと言うはずがあるものか」
「嬉しゅうございます」
エカテリーナはにっこり笑い、その笑顔のままミハイルに顔を向ける。
「ミハイル様、本当にありがとう存じます」
いろいろ状況が、前世の社畜経験では歯が立たないことになったりしてけっこう悩んでいたけど、君とお兄様のおかげで気持ちが軽くなったよ。トップスターな皇后陛下にお会いできるの、楽しみだし!
君ってほんとにいい奴!
きっと、ただ友情だけではなく……いずれ皇国を支える重臣となるであろうお兄様への配慮とか、皇室から見たユールノヴァの価値とか、いろいろな思惑があるのだと思うけど。
きっと立派な皇帝になれる君に、ユールノヴァにはそれだけの価値があると認めてもらえたことが、とっても嬉しいよ。
いろいろと気持ちを込めた言葉に、ミハイルはまた、眩しそうな顔をした。