フローラの放った白光、聖の魔力が、薄暮を貫いて闇の魔力へ突き刺さる。
漆黒の闇はあっさりと消滅した。
「お見事ですわ、フローラ様!」
褒め称えるのは、今度はエカテリーナのほうだ。フローラの魔力も、エカテリーナに勝るとも劣らず強大。セミョーン程度では、太刀打ちできるはずもない。
しかし、フローラはエカテリーナの称賛に頬を染めながらも、どこか腑に落ちないような表情をしていた。
「明るくすれば逃げにくいのでは、と思っただけだったんですけど……なんというか、不思議な手応えがありました」
手応え?
その言葉に、エカテリーナは首を傾げる。
言われてみれば、セミョーンの魔力はおそらく、光度調節型の闇の魔力。クラスメイトのユーリが持つ光の魔力と対になるもののはず。聖の魔力と相反するのであろうダークな感じの魔力ではないわけで、聖の魔力で打ち破られるのは、ちょっとおかしいかもしれない。
聖の魔力は本来なら戦闘には全く不向きで、直撃を食らってセミョーンはむしろ、健康になったかもしれないくらいだ。
ならば、フローラが感じた手応えとは、何なのだろう。
そんな二人の疑問はさておき、闇が消えてあらわになったのは、闇に隠れるためにか四つん這いになって逃げようとしていたらしき、セミョーンの姿だ。
髪も制服も落ち葉だらけの少年は、貴族にあるまじき四つん這いの体勢のまま、やけに――キョトンとしていた。
自分がどうしてここにいるのかわからない、というように、きょろきょろと辺りを見回している。
そんなセミョーンの傍らに、ぬっと仁王がそそり立った。
もとい、兄ハリトーンが仁王の形相で弟を見下ろしていた。
「うわあ!」
叫ぶと同時に跳ね起きて、セミョーンは走り出そうとする。が、その首根っこをハリトーンが引っ掴んだ。
「この、馬鹿!」
怒りに任せて引きずり戻し、胸倉を掴んで怒鳴りつける。
「全部教えてもらったぞ!よそのご令嬢たちに、なんて真似をしてるんだお前は!母さんが聞いたらなんて言うと思う!」
「う……う、うるさい!に、に、兄さんはいっつも僕に命令するけど、もう僕のほうが偉いんだ!次の当主は僕なんだぞー!放せー!」
セミョーンが言い返したが、半泣きで子供がだだをこねているようにしか聞こえない。次の当主という言葉に、微塵も説得力がないのだった。
「なにが次の当主だ!お前、家業のことも領地のことも、全然解ってないだろうが!母さんが教えようとしても、逃げ回ってばっかりだったくせに」
「と、父さんが、次の当主は僕だって……」
「馬鹿野郎!お前は何年あの人の子供をやってるんだ。いつだって、目の前にいる相手に調子のいいこと言うだけだろ。その尻拭いで母さんがさんざん苦労してたのを忘れたのか!」
うっ!
思わぬ流れ弾に被弾して、エカテリーナは内心よろめく。
そ、それって、似てる!ユールノヴァで、領地で知った、うちの父親の迷惑な性格に!
うちの父親もよく、上っ面の親切(じゃないと思う)で人に適当な嘘をついて、ぬか喜びさせたらしいもの。それを信じた人が、最後に奈落に突き落とされるという。お兄様と婚約させるとローカル悪役令嬢キーラを騙したの、いろんな方面に迷惑すぎたよね!
まあ最終的には、超有能お兄様が抵抗勢力を一掃するのに役立っていたけど!
……そういえば、ノヴァクさんが言ってなかったっけ。ナルス伯爵家は家付き娘だった夫人が亡くなって傾いた、とか。
ナルス伯爵夫人、旦那のせいで苦労させられたんだろうな……そして長男のハリトーンさんは、そんなお母さんを幼い頃から手助けしていたんじゃ……くうっ、急に親近感が湧いてしまう。
「か、家業とか領地とか、そんなの僕には関係ない!兄さんが全部やればいいんだ、自分ばっかり母さんに可愛がられてたんだから!」
あ、親近感がダッシュで引いた。
ていうか、セミョーンには一分の親近感も感じないわ。
「だからお前が逃げてばっかりだったからだろ!当主になるとかぬかすなら、ちゃんとしろ!」
「だから兄さんがやればいいんだ!僕が当主になったら、給金を払って兄さんを雇ってやる。それならいいだろ!」
「この……!」
さすがに顔を歪めて、ハリトーンが拳を振り上げる。
「ぼ、僕は身体が弱いのにー!暴力なんて野蛮だー!」
セミョーンは泣き声をあげて縮こまった。
こら待て、手下を使って女子を拘束しようとする蛮行を目論んだ張本人が何を言っとるか!
と、エカテリーナはつっこんだが。
ハリトーンは拳を震わせたまま、動かない。
長身で武芸にも秀でていそうな兄と、ひょろりとした弟。事実セミョーンは身体が弱く、甘やかされるというほどでなくとも、いろいろ許されて育ったのかもしれない。
それでも、セミョーンがしでかしたこと、兄を使用人にすると本人に言ってのける気遣いのなさは、許していいものではない。
ハリトーンの拳の震えが大きくなった、その時。
つかつかと兄弟に歩み寄った人間がいた。ハリトーンを追ってここへ現れた、マリーナだった。
追っては来たものの、セミョーンとのやり取りからハリトーンは悪い人間ではないと判断して、今まで静観していたのだろう。しかし緊迫した状況に、じっとしてはいられなくなったに違いない。
恐れ気もなくマリーナは、兄弟の傍らに立った。
ハリトーンの振り上げた拳に触れ、そっと下げさせる。
ハリトーンは目を見張ったが、されるがままに腕を引いた。内心ほっとしているようでもあった。
さらにマリーナは、セミョーンの胸ぐらを掴んだ手も解かせ、二人を引き離す。
セミョーンは目を輝かせていた。思いがけず現れた、救いの女神に笑顔を向ける。
「ありがとう、君は……」
その言葉が終わりもしないうちだった。
スパ―――ン!
マリーナの右手が一閃し、フルスイングのビンタが炸裂した。
「……」
その場の全員が絶句である。
セミョーンはよろよろとよろめいていたが、踏みとどまった。マリーナに叫ぶ。
「何をする……!」
スパ―――ン!
返す刀でもう一撃。
華麗なる往復ビンタが完成した。
エカテリーナの視界の隅で、ミナとイヴァンがうん、うんと頷いている。マリーナの往復ビンタは、戦闘メイドと最強護衛従僕の両名から見ても、納得の威力だったらしい。
涙目で、セミョーンは両頬に手を当てる。すぐに真っ赤に腫れてくるであろう。
「ぶ、ぶ、ぶったな!二回もぶった!母さんにだってこんなに強くぶたれたことないのにー!」
……某巨大ロボットアニメシリーズの初代主人公か君は。
いや似ているようで真逆?
ていうか、あれ?母さんにぶたれたって……ナルス伯爵夫人……あれ?
「なんて事するんだ、乱暴女!」
「あなたが悪いのですわ!」
エカテリーナが自分の母、淑女の鑑と謳われたアナスタシアと一瞬重ねてしまった、ナルス伯爵夫人の想像図を修正するのに苦しんでいる間に、セミョーンが怒鳴り出したがマリーナがびくともせずに叩き返していた。
「君が何を知っているっていうんだ!」
「たいして知りませんわ!」
いっそ清々しい!
「でも、あなた様より解っていることがありますわ」
マリーナは腰に手を当てて、胸を張った。
「仕事を出来もしないのに当主になりたいなど、言語道断ですわ!わがクルイモフ伯爵家の開祖が、子孫に何と言い残したと思いまして?
『当主は人の十倍働け。できないなら馬に蹴られて死ね』
ですわ!」
さ……さすがクルイモフ伯爵家……。
実の兄を使用人にするというのは非常識でも、仕事は管財人などに任せきりな貴族は多いらしい。そんな中クルイモフ伯爵家は、当主が自ら広大な牧場で汗を流し、出産シーズンには率先して仔馬をとりあげることで知られている。
その姿勢は、開祖の頃から貫かれてきたものらしい。
おそらくはマリーナ自身も、ご令嬢として奥にこもっていることなく、牧童たちと共に馬の調教などで汗を流しているのではないか。
立派だなあ。
うむ、うちのお兄様も率先して働いていて立派……。
っていや待て!当主が十倍働くとか、その思想は過労死一直線では!
いけないその遺訓はリニューアルしてー!
一瞬感心してしまったものの、当主繋がりで兄の顔が思い浮かんだとたん、サクッと考えを変えたエカテリーナであった。
ハリトーンとセミョーン兄弟は、まじまじとマリーナを見つめている。
まだ両頬を押さえているセミョーンは、混乱したような顔付きだ。なぜかきょろきょろと周りを見回し、ぶたれた頬に痛みを確認するように触れ直し、またマリーナへ目を向ける。何はともあれ、毒気を抜かれたというか、すっかりおとなしくなったようだった。
ハリトーンのほうは驚きと感嘆が入り混じった表情だったが、はっと我に返った。背筋を伸ばし、胸に手を当てて、貴族令息らしく一礼する。
「これは、かのクルイモフ伯爵家のご令嬢でしたか。お家のご高名はかねがね……弟が大変な迷惑をおかけしました。お恥ずかしい限りです」
ハリトーンはクルイモフ伯爵家を知っていたようだ。思えばこの両家、爵位は同じ伯爵、武辺の家柄で、皇国貴族の中ではやや異色の存在と、いくつも共通点がある。
いつもは五枚の猫を被ってキラキラ令嬢を演じているマリーナだが、ビンタをかまして啖呵を切った今は、猫ゼロ枚。それでも彼女は、メッシュのように金が交じった輝かしい赤毛が華やかな、生命力あふれる美少女だ。
そんなマリーナを見つめるハリトーンの目には、熱っぽい讃嘆がこもっていた。
そう出られると、マリーナも我に返る。
「恐れ入りますわ。こちらこそ、ご無礼いたしました」
往復ビンタと啖呵の後でも、しれっと猫を被るマリーナであった。強い。
とはいえハリトーンの横ではセミョーンの顔が腫れてきているようで、なかったことにはできないからすぐ猫被りが破綻しそうだし、頃合いだろう。
そう読んで、エカテリーナは動くことにした。
「マリーナ様」
フローラ、ミナ、イヴァンを引き連れた格好で歩み寄り、エカテリーナは声をかける。
「ま、まあっ、エカテリーナ様!」
マリーナが飛び上がらんばかりに驚いたのは、往復ビンタをエカテリーナとフローラに見られたことに、今になって気付いたからだろう。クラスのカースト上位キラキラ令嬢として、致命的。
しかしすぐ、気を取り直したようだ。目撃したことを言いふらすような二人ではないし、気にしないのが一番、とすみやかに開き直ったらしい。気にしたところでもはや手遅れだし、
そして、エカテリーナの視線に気付いて、マリーナはご令嬢らしく微笑んだ。
「ご紹介いたします。こちらはハリトーン・ナルス様、ナルス伯爵家のご長男だそうですわ。ナルス様、こちらはユールノヴァ公爵家のご令嬢、エカテリーナ様です」
このあたりはさすが伯爵令嬢で、マナーに則って初対面の令息令嬢を引き合わせる。そうする空気を目線で作ったエカテリーナも、高位貴族の令嬢が板についてきたかもしれない。
しかしハリトーンの反応は予想外だった。エカテリーナの名前を聞いたとたん、地面に片膝をつき、頭を垂れたのだ。
「お目にかかれて光栄です。聞きしに勝る美しさでいらっしゃる」
あ、この反応。
「ナルス様……もしや、貴方様がこの場にお出でになったのは、わたくしの兄がお呼びしたためですの?」
ハリトーンが現れた時のイヴァンの反応も考え合わせて、そんな気がする。
果たして、ハリトーンはうなずいた。
「はい、愚弟の問題を教えていただいて……。
そして、恐れ多くもミハイル皇子殿下からも、お声をかけていただきました」
――えっ。
な……なんで、皇子の名前がここで出てくるの?