「アイザック博士が、もうすぐ皇都に到着される見込みです」
放課後の執務室で、届いたばかりの書状を手に、アーロンがそう報告した。
昼休みと違ってエカテリーナはいない。アレクセイと側近たちが、粛々と執務を執り行っている。
エカテリーナがいないからこそ、彼女の耳に入れるのが憚られる業務をこの時間帯に片付けることにしている。そうした業務はおおむね薄暗いものだが、まれに明るいものもある。
ひとつの昏い議題が手詰まりとなったところで、空気を変えるべく切り出された明るい話題だった。
「そうか。思いの外、順調な旅路のようで何よりだ」
アレクセイがうなずく。
アイザックを皇都に呼ぶことが決まったのは、学園祭の初日でのこと。それから過ぎた日数を思えば、『順調な旅路』はそぐわない言葉に思える。
が、車や汽車などの交通機関が存在しないこの世界だ。
夏休みにエカテリーナとアレクセイがユールノヴァ領に帰った時には、この時代としては最速の移動手段である快速船ラピドゥスを使って、数日で到着することができた。けれど、馬車で移動した場合には、片道だけで二週間はかかる。それでやっと公爵領の領都に着くが、アイザックはユールノヴァ領の旧鉱山にいたわけで、領都からさらに数日かかる。
それだけの日数をかけてようやく、皇都へ来てほしいという連絡がアイザックのもとへ届いた、という段階なのだ。
その要望に快く応じて、アイザックは旧鉱山から出立したのだが、そこからも長かった。
庶子とはいえ公爵家の一員であるアイザックだが、馬車での移動を好まないのだ。自分の足で、歩いて移動したがる。
そして、すぐあれこれ気を取られて道を外れる。幼子のように。
行方不明になることさえ、数知れず……それが、御歳六十歳アイザック・ユールノヴァの通常運転であったりする。
よく今まで無事に生きてこられたと感心するレベルだが、そういう子供のように純真な人柄ゆえに、毎度誰か世話を焼いてくれる相手が現れるようだ。そして、ユールノヴァの山岳神も関係しているのだろう。美幼女の姿の姫神から、謎の嫁認定をされていることで、なんらかの加護を得ている可能性がある。
そんなアイザックが、もう皇都の近くにある公爵家の別邸のひとつに到着したとの報告が、アーロンの元に届いたのだ。
アーロンが選んだ信頼できる従者をアイザックにつけているためもあろうが、実は驚異的な順調さなのであった。
「博士は、お嬢様がお贈りになった顕微鏡が、ことのほかお気に召したようです。それを作った職人に会ったり、お嬢様のガラス工房を訪ねるのを、楽しみにしておられるようですね。それで旅路も捗るのでしょう」
眼鏡の似合う学者然とした風貌のアーロンが、嬉しそうに相好を崩している。
エカテリーナがここにいたら、『アーロンさんのアイザック大叔父様への愛が沼……!』といつも通りに慄くだろう。
まあ、それでも『到着される見込み』と表現するあたりが、アーロンのアイザックへの理解度の深さかもしれない。最後まで油断は禁物らしい。
「大叔父上に再会できれば、エカテリーナも喜ぶことだろう。あの子の誕生日には間に合いそうだな」
アレクセイも口元を綻ばせた。
商業流通長のハリルがくすりと笑う。
「お嬢様の誕生祝いは、盛大な宴になりそうですね。公爵邸の使用人たちも張り切っているようです。いい食材を押さえたいと、私にも声をかけてきました」
「ほう……グラハムか、それとも料理長か」
「両方です」
ハリルの返答に、アレクセイは微笑んだ。執事のグラハムがエカテリーナを女主人として立てつつも深い愛情を注いでいるのは以前からだが、料理長も心服しているらしい。
「料理長は、お嬢様がお考えになった料理を皇帝陛下にお出しする日を待ちわびているようです。以前の豚肉料理も美味でしたが、先日の鳥肉料理はさらに素晴らしかったですね」
先日というのは、エカテリーナが生徒会役員を招いてパーティー料理でもてなした時のことだ。
その料理のうち一品は、エカテリーナが提案して料理長が実現したものだった。生徒会役員たちを虜にしたそれを、ハリルもちゃっかりしっかり味わっていたらしい。彼はトンカツより、今回の料理のほうが気に入ったようだ。
毎年、皇帝陛下の御来駕を迎えるユールノヴァ公爵邸の料理長は、もてなしの料理に常に頭を悩ませている。新奇な料理を思い付いてもらえるのはありがたいに違いなく、お嬢様の味のセンスに感服してもいるのだろう。
「我が家の幸運の女神にふさわしいよう、なんなりと、最上のものを揃えるように」
「御意」
ハリルが頭を下げたところで、それまで無言で考え込んでいたノヴァクが口を開いた。
「……昔のことを思い出しました。私が生まれ育った下町では、そこで祈れば幸運を得られる、と語り伝えられている場所があります。下町でも治安の悪い地区にある――義賊の彫像の前です」
唐突な言葉だが、意味のないことを言い出すノヴァクではない。一同は続きを待つ。
「あの頃は聞き流しておりましたが、今になって考え合わせてみると、根拠のないことではないのかもしれません。お嬢様が話しておられた、義賊ナルスの末裔……裏を探ってみたいですな。もしも想像が当たっていれば、ナルス家は今もあの辺りに繋がりがあるのかもしれません。裏の世界に通じているとすれば、ナルス家を押さえることで、横領された金の流れを暴くことができるやもしれません」
アレクセイのネオンブルーの瞳が、ノヴァクを見た。
「エカテリーナが関わろうとしている相手だ。早急に調べろ。次男は不埒な人間のようだが、ナルス家――正か、邪か。
エカテリーナの害になるようなら、役に立とうと立つまいと、この手で斬って捨ててくれよう」