この歌は本来前奏はなく、低声の歌と伴奏がほぼ同時に始まる。
しかし今回、歌い出しの一節をレナートはより高めの音にアレンジし、オリガはそれを伴奏なしのアカペラで歌った。
元の歌は、歌い出しは英語だ。翻訳するにあたっては、その部分も皇国語に意訳した。意訳を日本語に訳し直せば「心はいつも私に告げる」という感じ。
これを、オリガは渾身のロングトーンで「聴かせた」。
湧き上がるような歌声が、美しくもどこか哀感が漂うファルセットに変わって、天へと昇ってゆく。小柄な身体から出ているとは信じられないほどの声量が、劇場を満たしていった。
低音が出せないわけではない。オリガは広い音域の持ち主だ。日本の民謡に当たるような、出身地域独特の歌唱と発声法を祖母から学んでいて、それで低音から高音まで安定して出せるようになったという。その発声法が彼女の歌声に、独特の味わいを、美しさを、加えている。アレンジなしでも、歌うことは可能だった。
それでも、歌はただ歌えばいいわけではない。同じ曲でも、演出によってさまざまに印象を変える。
両陛下の前でこの曲をいかに歌えば、好感を持っていただけるか。レナート、ディドナート夫人、エカテリーナ、オリガであれこれ考えて、こと細かに歌い方を決めた。オリガはとことん練習を繰り返して、それを身体に叩き込んだ。
この曲は、両陛下にとって耳慣れない曲。歌い出しでじっくりと時間をとって曲の世界観や雰囲気を知ってもらいつつ、オリガの声の美しさや、短期間ですっかり上達したビブラートやロングトーンの技術を評価してもらうべき。
そう皆で合意した通り、オリガは澄み切った声を惜しみなく響かせて、歌声で劇場を満たしている。
ああ、美しい。
先帝が「ほう」と呟くのが聞こえた。
皇太后は、じっと聞き入っている。その目はひたとオリガを見つめていた。
声の反響がすっかり消え去るまで溜めを入れたのち、次の一節へ。それにぴたりと合わせて、レナートの伴奏が加わった。一人ではないという歌声が、ピアノの音と溶け合う。
歌は続く。心の繋がりを、星々の輝きを、奇跡を歌い上げる。
空は厚い雲に覆われた曇天。けれどエカテリーナを魅了してやまないファルセットが天へ響き渡ると、その雲の彼方にある見えないはずの星々が、きらめいた気がした。
オリガの歌声には、そういう不思議な作用がある。そういえば初めて聞いた時も、脳裏にありありと満月が浮かんだのだった。
つい比べてしまうけれど、技術力の高さに感心したリーディヤの歌唱と比較しても、オリガの音程の正確さや声量の豊かさ、高い声も低い声も安定して出せる発声、ロングトーンやビブラートなど、技術的な面もそう引けを取らないと思う。
けれど不思議と、そこに着目してすごい!とはならない。
そういうことよりも。
オリガが、孤独ゆえに愛を知ると歌う。
エカテリーナの脳裏には、兄アレクセイが浮かぶ。まだ兄と知らず別邸の窓から見ていた、きれいな顔立ちの少年だった彼だ。母と妹がいる別邸の前を、ただ通り過ぎていった兄。祖父セルゲイを亡くし、わずか十歳にして独りでユールノヴァ公爵家を背負わねばならなかった、寂しい子供だったアレクセイ。
今、あれほど妹を愛してくれるのは、その孤独のゆえなのだと――。
そしてまた自分も、兄が何よりも大切なのは、前世の社畜時代も今生の子供時代もひどく孤独だったからなのだと。
我が身に引き付けて、歌詞があらためて深く感じられ、涙がこみ上げる。
歌が、聴く人に、心に、染みてくる。
技術よりも心が大事、という話ではない。技術があるから、心に染みる歌が歌える。リーディヤの歌は、充分素晴らしかった。
ただ、おそらく彼女は、あと少し技術が足りないのだろう。歌い手が技術をひけらかせば、聴き手は醒める。技術を誇っていることを感じさせない、という「技術」が、リーディヤには足りていない。とはいえこの年頃の少女なら、誇れるだけの技術を身につけているだけで、立派な才能の持ち主だ。
けれどオリガは、技術として学ぶことなく、天性でそれができるのだろう。技術を学べば学ぶほど、それを駆使するほど、ひたすら聴く者の心をさらに揺さぶる力にできるのだろう。
レナートの伴奏も、さりげなくそれを支えていた。そして歌の合間には、曲の主題を織り込んだ間奏、と言うには自由度の高い生き生きとした演奏を挟んで、オリガを休息させている。
正直、ピアノがこれほど多彩な音を出せる楽器だとは知らなかった。
変わった弾き方をしているわけではない。ピアノの技術的なことは、エカテリーナはあまり知らない。けれど、音がきらめくようだったり、哀しく泣くようだったり、愛しく包むようだったり。人間の声にも劣らぬほど、情感を伝えてくる。
音が出るものならなんでも得意、と言い放ったレナート。彼もまた天性で、奏でる音で人の心を動かすことができるのだろう。オリガとコンビを組んで、その素質がいっそう引き出された。
二人は、ともに奏者のようだ。
音楽で人の心から喜びや哀しみの音色を引き出す、人の心を奏でる奏者。
歌は終盤まで進み、オリガの歌声は力強く、そして優しく、未来を祈る。望みのままに輝いて生きてと願う。
そして最後に、私はいつまでもあなたのために歌い続けると、そう高らかに歌いあげた――その時。
皇太后の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
それを見て、エカテリーナはしみじみと、心の中でオリガに呼びかける。
オリガちゃん。
君は、やってのけたよ。
深い余韻を残して、歌は終わった。ピアノの後奏が、優しい音色で主題を繰り返し、和音で終わる。
――その、瞬間。
天が動いた。
厚く空を覆っていた雲が割れ、光が降り注ぐ。
雲の切れ目から光線が射し込む、天使の梯子、などと呼ばれる気象現象だが。
その光がまさにこの劇場へ、この舞台へ射し込んで、オリガとレナートを神々しく照らし出していた。
いやこれは……出来過ぎでしょ。
絶句しながらもその光景に魅せられつつ、エカテリーナは思ったが。
次の瞬間、その光が、五色の彩りを帯びた。