210. 音楽神

雲の切れ目から劇場の舞台へ降り注ぐ光が、虹のような彩りに変わって、ゆらゆらと波打っている。

(でっかいプリズムで光が分散した?それともオーロラ?――って、そんなわけあるかい!)

脳内でノリツッコミやってる場合か自分!

でも雲は大きく動いてはいないのに光が波打つって!どういうこと?どういう超常現象よ⁉︎

仏教だと、仏が聖人を迎えにくる時に、こういう感じの瑞光とか瑞雲とかが出るっていう話があった気がするけど……。

前世で見た、五色の瑞雲に仏が乗り天女が周囲に舞う仏画をエカテリーナは連想した。

それが呼び水になったかのように。

雲間から溢れる光の中に、翼を広げて舞い降りて来る、姿が。

翼の色は光と同じ、五色に輝いている。その翼を背後に広げ、飾り羽と尾羽を長くたなびかせている、美しい人の姿をしたそれは――。

音もなく、皇太后が立ち上がった。

舞い降りて来るものへ、礼をとる。皇帝の母、国母が。この皇国で最も侵しがたく高貴な女性が。

さらには、先帝までが席を立ち、頭を下げた。

ももも、もうこれは間違いないいい!

音楽神様。

降臨ーーーー‼︎

あわててエカテリーナも立ち上がり、礼を取る。ミハイルも。

頬を上気させたリーディヤもまた。

音楽神は、劇場の上空まで来ると、周囲を優雅に一周した。

そして、舞い降りる。

貴賓席へ。

地上へ降り立つことはなく、音楽神は人間たちを見下ろして、中空に浮いている。翼は開いたままで、羽ばたくことなく宙に静止している。物理法則には、左右されないようだ。魔竜王ヴラドフォーレンと同じように、魔力というか神力で浮いているのかもしれない。

間近で見る音楽神は、なんとも艶やかだった。

男性とも女性ともつかない顔立ちは、上品にして艶麗。アーモンド型の大きな目、瞳の色は、青のような赤のような黒のような……刻々と変わるようだ。紅をさしたように赤いふっくらとした唇は、アルカイックな笑みをたたえている。

髪の色は青、赤、黄、黒、白の五色が入り混じって、南国の鳥の羽のように鮮やかに輝いていた。衣装は古代風、いや東洋風か。前世で見た、天女か弁財天あたりが着ていたものに似ている気がする。こめかみ辺りの髪が変じた飾り羽と尾羽が長くたなびくさまも、天女の比礼を思わせた。

死の神や山岳神のような、身動きもできないほどの神威ではなく。強く強く、惹きつけられる。他の何者も目に入らないほどに、心のすべてを吸い込まれてしまうほどに――魅せられる。

音楽神は皇太后に目をやり、大きな目を細めて微笑んだ。

――クレメンティーナ、息災であるか。

その声。

ただ言葉が語られただけなのに、エカテリーナは陶然となった。それはあまりに美しい、音楽の精髄だった。

「はい、音楽神様のご威徳のおかげをもちまして」

皇太后は穏やかに応える。音楽神の加護を持つ身であるだけに、その魅力にも免疫があるのだろう。

――そなたの側で、美しき歌、美しき音色が響いていた。それゆえ、来た。

そう言って、音楽神は視線を巡らせた。貴賓席にいる、二人の少女へ。

リーディヤが小さく歓喜の叫びを上げ、両手で口元を覆った。目を輝かせて音楽神を見つめる。

音楽神はすうっと滑るように二人の前に降り――。

正面から、エカテリーナを見た。

(えっ?)

エカテリーナは驚きのあまり動けず、目を見開くばかりだ。歌っていない自分に、なぜ音楽神が?

ミハイルが、はっと息を呑んだようだった。

――珍かなる旋律。不可思議。

音楽神は、鳥のように首を傾げる。

その言葉にふと思い出したのは、かつてユールノヴァで、死の乙女セレーネに言われたことだ。エカテリーナの、魂について。

『とても目立つの。聞いたことのない旋律が響いてくるような、不思議な色の光が射しているような……』

い、異世界産の魂のせいかー!

――これもまた美し。しかし……我がモノに非ず。

その言葉を残し、音楽神は翼を一打ちして貴賓席から飛び去った。

音楽神は舞台に向かう。そこには、オリガとレナートがいる。

二人ともただただ驚いて、音楽神を見つめている。

音楽神は微笑んだ。艶やかな唇が弧を描く。

――これは我がモノ達。美しき歌、美しき音色。良き哉、良き哉。

そして二人に、両手を差し伸べた。

――良き歌い手、良き弾き手。我が庭に来よ。今一度、聴かせて給たもれ。

オリガも、レナートも、夢を見ているような表情だ。音楽神に、完全に魅了されているのだろう。その手を取るべく、ゆっくりと手を伸ばす。神の招きを受けて、応じるほか人間に何ができよう。

が、声が上がった。

「そんな!」

悲鳴のように、リーディヤが叫ぶ。

「お待ちくださいませ、そんな、なぜ!わたくしは……わたくしのはず……」

どうしようもなく漏れた心の叫びに違いなかった。

けれど、音楽神は振り向かない。目をやることすらしない。

「音楽神様!」

叫んで、ついにリーディヤは駆け出した。

「わたくしを、わたくしをお連れくださいませ!」

走る、という行為は貴族令嬢にふさわしくないとされている。皇后となるべく育てられてきた彼女は常に、侍女が持つ日傘の下を、しずしずと歩いてきたに違いない。

それなのに今、きらびやかなドレスをなびかせて、リーディヤは必死に走っている。

「音楽神様、わたくしを……どうか、わたくしの歌を……!」

今は音楽神以外の何も目に入らないに違いないオリガとレナートが、音楽神の手を取った。

「わたくしの歌を聞いてくださいませ!」

リーディヤが舞台に駆け上がる。

けれどその瞬間、音楽神と、オリガとレナートの姿が、ふっと消えた。

五彩の光も消えて、すべてが夢だったかのように、舞台の上はがらんとしている。

リーディヤはくずれ落ち、声を上げて泣き出した。

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