207. リーディヤの歌

貴賓席に茶菓が運ばれて来て、まずは両陛下と同じテーブルについて歓談する流れになる。

しかしエカテリーナは、どうにもそわそわと落ち着かなかった。どこかに待機しているはずの、オリガとレナートが心配で。

オリガちゃんは大丈夫だろうか。さぞ緊張しているだろう。皇太后陛下からお言葉をいただけないかと思いついた時には、まさかこんなに本格的な劇場があるなんて思わなかった。気弱なオリガちゃんは、雰囲気に圧倒されてしまうんじゃ?

レナート君も、初めての場所と初めてのピアノ……。

あれ?いや、うん。彼のことは正直、心配しようとしても心配できないと気付いたわ。音が出るものならなんでも得意って言い放つ、可愛いのに超強気キャラだし。しまいにゃ、前世の熱い人みたいになってきたしなー。

そういえば彼は、乙女ゲームの攻略対象らしいんだけど。どういうキャラとして出てたんだろう。キャラ崩壊してない?

「エカテリーナ」

はっ!

ミハイルがそっと呼んでいたことに気付いて、エカテリーナは我に返った。

きゃーっ!両陛下の前でぼーっとするなんて大失態!

「ま、まあ、申し訳ございません」

「ユールノヴァ様、ご気分でも?」

心配そうな表情で、リーディヤが首をかしげている。

「そういえば、たいそう病弱でいらっしゃると、うかがっておりますわ。学園への入学式の後、お倒れになってしまわれたとか」

あら、懐かしの病弱設定が。お帰りお久しぶり。

そうか、私を次期皇后争奪戦のライバルと思っているから、両陛下の前でマイナス情報を暴露してるのか。オッケーどうぞどうぞ。

「よくご存じでいらっしゃいますのね。お気遣い嬉しく存じますわ」

エカテリーナが微笑むと、リーディヤはわずかに目を見開いた後、いっそう気遣わしげな表情になった。

「高貴なお血筋でいらっしゃるのですもの、ユールノヴァ公爵家は注目の的。わたくしのクラスの者たちはいつも、ユールノヴァ様の話題で持ちきりですのよ。

皇都の社交界でも、ときおり母君、ユールノヴァ公爵夫人のことが話題になっておりましたわ。母君も、病弱でいらしたそうですわね。ずっと領地で静養しておられると聞いて、皆で案じておりましたの。たいそうお美しい方だったとも、聞いておりました。ユールノヴァ様をお見かけした時、さもあろうと納得いたしましたわ。その目も醒めるばかりのお美しさは、母君譲りでいらっしゃいますのね」

そう言ってリーディヤは称賛するように微笑んだが、エカテリーナはさすがに頬が強張っている。

私の病弱はお母様から受け継いだもので、そういう血筋だと言いたいわけね。子供にも引き継がれるだろうとか、そういうこと。なんと見事な、婉曲なディスり。

お母様のことまで持ち出してくるのはね……さすがにやめてほしいよ。

と、ミハイルが口を開いた。

「そういえば、エカテリーナは僕と一緒に魔獣と闘った後にも倒れたそうだね。今はすっかり元気だから、つい忘れてしまうよ。それにあの時は、大型のゴーレムを作り出したり、土属性の魔力で水の混じる泥濘を大量に操ったり、魔力の強さに感心した。以前あの時のことをお話しした時、先帝陛下も勇敢な令嬢だと仰せでしたね」

孫の言葉に、先帝ヴァレンティンがうなずく。

「うむ。ユールノヴァは強力な魔獣の出現が多いというが、うら若い令嬢の身で他の生徒を守って闘うとは、見上げたものよ。義兄セルゲイも領地ではしばしば自ら魔獣討伐に出たと、その時の話を聞かせてくれてな。冒険譚のようで、若かりし頃には憧れたものであった。

そなたはさすが、あのセルゲイの孫。そのたおやかな見た目で、見事な活躍であったな」

「……お褒めにあずかり、恐縮にございますわ」

エカテリーナは先帝に頭を下げた。

先帝陛下は今も、お祖父様のことを本当に大切に思ってくださっているんだ。血筋のことを持ち出すと、お祖父様の話になって私のプラスになってしまう。賢いリーディヤは、もうお母様のことを言い出さないだろう。病弱も、魔力の強さで相殺?

正直、今ばかりは、リーディヤに一矢報いてすっきりだ。そういう話の筋道をつけてくれて、ありがとう皇子!なんだかもう最近、借りを作ってばかりな気がする。

あれ、でも、嫁として失格と思われるのはむしろ好都合だったかも?

でもほら……リーディヤがゆくゆくは皇后って、ちょっとやっぱり……。

ともあれ、ここでドヤ顔とかあれ?とかな顔はするべきではない。ご令嬢として。エカテリーナはせいぜいすました顔で目を伏せてリーディヤを見ないようにしたが、あちらで何かがぐつぐつ煮えている気がする。

そこへ、皇太后クレメンティーナの静かな声がかかった。

「今日は、二人の音楽を楽しみにしていました。そろそろ、どうかしら」

さっと顔を上げたリーディヤが、尋ねるような視線をエカテリーナに送ったものの、すぐに笑顔を皇太后に向けた。

「わたくしはいつでも歌えますわ」

……どっちが先に歌うかを目線で相談しました、というふりだけはして、計画的に先攻を取ったわけね。

わかるよ。上手い人の歌を聴いた後だと、次の人の歌は粗が目立つもんね。合唱部のコンクールでも、順番がわかって直前が強豪校だったりすると、皆で嘆いたもんだったわ。

リーディヤはさっと立ち上がる。

とたんに、彼女の表情が変わった。

その視線はもうエカテリーナのことを忘れたように、まっすぐに舞台へ、舞台を見下ろす音楽神のレリーフへ、向けられていた。

先帝の傍らに控える侍従が合図をすると、舞台袖から伴奏役らしき青年が現れた。リーディヤが呼んでいた、本格レッスンの時に伴奏者を務めているというプロのピアニストなのだろう。彼がピアノに歩み寄る足取りからして、この場所は初めてではなさそうだ。

リーディヤが、舞台の中央に堂々と立って、一礼する。細身の彼女が、大きく見えた。

初めて聴いたリーディヤの歌は、一言で言って――圧巻だった。

(凄い!めっちゃ上手い!)

リーディヤが歌ったのは、建国の父ピョートル大帝を題材にした歌劇の一曲。大きな戦を前にした大帝を、初代皇后リュドミーラが叱咤激励し、愛を告げる歌だ。

両陛下の前で歌うには最適な、愛国的なテーマに満ちた大曲を、リーディヤは堂々と歌い上げた。

美しく華やかな声質。

劇場をいっぱいに満たすほど豊かな声量。

完璧な音程、優れた技巧。

少女の歌とは信じられないほど、非の打ちどころがない歌声だった。

ついさっき母のことを貶められたことすら忘れて、エカテリーナはその歌に聞き入ってしまう。そう言えば、レナートが言っていた。お嬢様の歌声には聞き惚れずにいられないと。

でも、楽しくないと。

死角のない歌いっぷりだ。抑えるべきところでは抑え、盛り上がるべきところで爆発的に盛り上げる。思い切り声を響き渡らせても、息を使い切ることのない冷静な計算。それでいて切なく声を震わせれば、聴く者の胸も震える。

音楽の技巧は、聴き手の心へ音楽を届けるために発達した。だから、優れた技巧は聴き手の心を打つ。エカテリーナは、感心し、高揚し、感動した。楽しんだと思う。

でも……なんだろう。

音楽の夕べでオリガの歌を聞いた時、魂が持っていかれる感じがした。そういう感じは、ない。あまりに自信に満ちているせいだろうか。心が、今ひとつ添っていかない。今のリーディヤとの対立関係が、そう思わせるのかもしれないけれど。

それでも、リーディヤの歌が終わった時、エカテリーナは誰よりも大きな拍手を贈った。

これだけの技量を身につけるまでに、どれだけのレッスンを重ねたのだろう。その研鑚は、称賛すべきものだから。

リーディヤが貴賓席に戻ってくる。

「見事な歌であった。一段と技量が上がったようだな」

先帝の言葉に、リーディヤは上気した顔で淑女の礼をとった。そして、エカテリーナに微笑みかける。勝利を確信した表情で。

「ユールノヴァ様、どうぞ。歌声をお聴きするのを、楽しみにしておりましたわ」

エカテリーナはにこやかに応えた。

「恐れ入りますわ。でも、わたくし、歌いませんのよ」

「……え?」

初めて、リーディヤは素の表情を見せた。きょとんとしたのだ。

「ああ、思い違いをなさっておられましたのね。わたくしがクラスの催しで歌った曲が、思いがけず皆様からご好評をいただきましたので、その曲を両陛下にお聴かせしてはとミハイル様が仰せになりましたの。曲を、ですわ」

にっこり微笑みながら強調すると、じわじわとリーディヤの顔に理解と、驚きと、怒りが広がってきた。

「わたくし、セレズノア様のように幼い頃から声楽に打ち込んできたわけではありませんの。わたくしの拙い歌など、到底両陛下にお聞かせできるものではございません。ですから」

エカテリーナは、先帝の傍らに控える侍従に視線を送る。侍従は一礼し、舞台のほうへ合図した。

「同じクラスで出会った新しい才能を、両陛下にご紹介することができれば、お喜びいただけると考えましたの」

音楽神のレリーフが見下ろす劇場の舞台に、オリガとレナートが現れた。

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