206. 先帝と皇太后

到着した離宮は、美しい場所だった。そして広大だった。

城門から城そのものまで距離があり、城門の内も緑が豊かで、まるで森の中であるかのように静謐だ。自然のままのようでいてしっかりと手入れされた木々の間に、美しい古城が静かに、しかし威厳をたたえて、そびえ立っている。

「なんとも閑雅な趣ですのね」

「ここは代々の皇帝が退位後に住む場所だから、静かに暮らせるようになっているんだ」

ミハイルはそう言ったが、歴史的背景を考えると、静かに「暮らさせる」ようにこうなっているのかもしれない。

「城内に入ると大変なんだよ、改築に次ぐ改築で迷路のようになっているから。代々の先帝がそれぞれありあまる時間をかけて、自分の好みに改築してきたそうでね、新入りの使用人は必ず迷うらしい」

なるほど。

好みのお城を作る普請道楽って、王侯貴族の趣味のひとつだったような。前世のノイシュヴァンシュタイン城とか。

「先帝陛下は音楽がお好きだから、主に劇場を改装なさったんだ。特にこれから行く野外劇場は、音楽神殿の舞台そっくりに改築されている。皇太后陛下の為にね」

城内に劇場か……口ぶりからして野外劇場の他にも複数あるよね。自宅に劇団とか歌手とか、いろいろな規模でお呼びになるってことですね……前世でセレブの豪邸に映画館があるとかTVで見てスゲーってなったけど、ガチの王侯貴族はレベルが違うわ……。

ここから先には供は連れていけないとのことで、ミナとルカは別の場所で待機となった。ミナが素手でも殺傷能力を持つ戦闘メイドであることはお見通しなのだろう、先帝の前へ伴うことができるわけがない。

年配の使用人に案内されて庭の小道を進むと、野外劇場が見えてきた。

形状は古代ギリシャや古代ローマの劇場を彷彿とさせる。いや、この世界なら古代アストラ風か。すり鉢状に観客席があり、その底に半円形の舞台がある。舞台の背後には壁があって、音が反響するようになっている。

その壁に音楽神の姿が、鮮やかに彩色された巨大な浮き彫りとなって、浮かび上がっていた。

音楽神は、人間と鳥が混じったような姿をしている。エカテリーナは前世で見た迦陵頻伽の仏像を思い出した。あれは上半身が美女で下半身が鳥だったが、音楽神は下半身も人間と同じであるようだ。男とも女ともつかない美しい顔立ち、背中には五彩の翼があり、髪の一部も飾り羽、腰からは長い尾羽が伸びている。身にまとう衣装はどこか東洋めいていて、たくさんのネックレスやブレスレット、アンクレットで身を飾っていた。

その野外劇場の観客席に設えられた、貴賓席。おそらく音が最も良く聞こえる位置に特別な椅子やテーブルが設置され、飲み物などを楽しみながら歌や劇を観賞することができるようになっている席で、先帝と皇太后が待っていた。

「ミハイル、我が孫。よく来てくれた」

先帝ヴァレンティンが、気品あふれる顔をほころばせた。

現在、六十三歳。エカテリーナの祖父セルゲイの二歳下だ。若い頃には春空のような少し淡い青だったはずの髪は、今は純白。けれど、瞳の色は今も鮮やかな青だ。即位した頃に描かれた肖像画では女性と見紛う美貌の持ち主だったが、年齢を重ねて今は品位ある老紳士といった様子。聡明ながら虚弱だったと聞いていた通り、鍛えているとは見えない細身で身長も現皇帝コンスタンティンほど高くはないが、瞳には知性の輝きがある。

「元気そうで良かったこと。また背が伸びたのではなくて?もうコンスタンティンと同じほどでは」

先帝の傍らで微笑むのが、皇太后クレメンティーナ。

肖像画ではリーディヤと同じ青みがかった銀髪であったが、今は見事な銀髪だ。色を変えた今も艶のあるその髪を、品良くアップにまとめていて、こちらも上品な老貴婦人そのもの。ほっそりした身体はバランスの良さで背が高いように見えるが、長身というわけではなく先帝とちょうど釣り合いが良いくらい。

かつてセレズノア家で三姉妹の真ん中として生まれ、美貌で姉と妹に劣ると冷たく扱われたというが、もしかすると今その姉と妹と並べば、二人よりはるかに美しいのではないか。それくらい、皇国で最も高貴な女性として立ち続けてきた歳月が、静かな輝きになっているように感じられた。

「まだ父上には追いつけません。でも、もう少しです。父上は嫌がって、あまり食べるなと仰せでした」

にっこり笑ってミハイルが言うと、二人は揃って楽しげに笑った。

「そなたの訪れは、ここでの暮らしの一番の喜びだ。しかも此度は、美しい友人を連れてきてくれた」

孫を見る好々爺の表情のまま、先帝が少女たちに視線を移す。

「素晴らしい才能の持ち主ですから、ぜひご紹介したいと思いました。こちらがエカテリーナ・ユールノヴァ嬢です」

ミハイルの紹介を受けて、エカテリーナは淑女の礼をとった。

「ご尊顔を拝し光栄に存じます。エカテリーナ・ユールノヴァにございます」

「そなたが義兄セルゲイの孫娘か」

「美しい令嬢だこと」

先帝と皇太后が、共に微笑んだ。

「エカテリーナ、活躍のほどは耳にしておる。ガラスペンなるもの、余も手にしてみたいものだ」

おおっ。ガラスペン高級路線の広告塔が新たに!

いかんいかん、ここで商売っ気を出すな自分。

でもハリルさんとレフ君に相談だ。きっと喜ぶぞー!

「有り難きお言葉、兄アレクセイもさぞ光栄に思うことと存じますわ」

「うむ、アレクセイにもよしなに伝えてもらいたい」

うなずくと、先帝はリーディヤに目を向けた。

「リーディヤにはたびたび無聊を慰めてもらっておる。今日も歌ってくれるとか、楽しみなことだ」

「真面目なそなたのこと、日々精進してきたことでしょう。わたくしも楽しみにしていましたよ」

両陛下の言葉に、リーディヤも美しい礼をとる。

「拙い技芸ではございますが、力の限り努めさせていただきます」

ちらりとエカテリーナに向けた目に、挑戦と優越の光が見えていた。

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