魔法学園の正門近くには、馬車の乗り降りのための広い車寄せがある。
馬蹄形の大きな広場全体に石畳が敷き詰められ、馬蹄形の周縁に沿って簡易な屋根が設置されている。雨に濡れることなく、馬車の乗り降りができるようになっているのだ。エカテリーナは大きな駅の駅前バスロータリーを思い出したりしたが、貴族仕様なので屋根を支える柱は石造りに彫刻が施された、豪壮な印象のものである。
本日は、鈍色の雲が空を覆う曇天とはいえ雨の恐れはなさそうだったが、貴族の子弟の多くを預かる魔法学園が皇国にとっていかに重要な施設であるかを、訪れる者に感じさせる設備であった。
車寄せの近くには、馬車を待つ人々のための東屋が設置されている。
そこで、リーディヤがすでに待っていた。
今日は、先帝陛下皇太后陛下を訪問する日。
学園でミハイル、そしてリーディヤと待ち合わせて、三人で先帝陛下が暮らす離宮へ向かう手はずになっていた。侯爵令嬢であるリーディヤだが、この三名の中では一番身分が低いため身分の高い二人を待たせることがないよう、早めに来ていなければならない。さすが、そのあたりのマナーは完璧なようだ。
しかし、現れたエカテリーナを見て驚きが顔に出るあたり、彼女もまだ子供なのだろう。
エカテリーナは、兄アレクセイにエスコートされていた。
アレクセイは現ユールノヴァ公爵。有力貴族の当主は先帝を訪問すべきでない、という原則を鑑みれば、現れるはずのない人物なのだ。
アレクセイが東屋に足を踏み入れたら、リーディヤは立ち上がって跪礼をとるのがマナーだ。
しかし、その直前でアレクセイは足を止め、妹に向き直った。
「エカテリーナ。私の青薔薇」
いとおしそうに、アレクセイはエカテリーナの藍色の髪に触れる。
「本来なら、私がお前を先帝陛下にお引き合わせすべきなのだが……共にいることが出来ずすまない」
「いいえ、お兄様。お兄様のお心は、いつもわたくしと共にお在りですわ。わたくし、解っておりましてよ」
エカテリーナが微笑むと、アレクセイはふっと笑った。
「そうだな、お前はすべてを見通してしまうのだった。私のエカテリーナ、麗しき女神」
優しい声音は、すぐに鋼のごとくに硬い響きを帯びた。
「ゆめゆめ忘れてはならないよ、お前はユールノヴァの女主人だ。お前を軽んじる者があれば、それは我らユールノヴァを軽んじる者。何かあれば、すべて私に話しなさい。私が必ず、しかるべき罰を与えよう」
「はい、お兄様。わたくしは何事も、お兄様の仰せの通りにいたしますわ」
「いい子だ」
アレクセイは、そっとエカテリーナの髪を撫でる。
そして視線を巡らせて、一瞬だけ、眼光鋭くリーディヤを見た。
リーディヤは青ざめたようだ。アレクセイはすでに当主、ユールノヴァ公爵その人である。その言葉の重みは、同世代の令息令嬢とは桁違いだ。
アレクセイはすぐに彼女から目を逸らし、エカテリーナに優しく囁いた。
「帰りを待っている」
アレクセイがきびすを返した時、ミハイルが現れた。
軽快な足取りで、歩み寄ってくる。
アレクセイは目礼し、ミハイルは笑みを返した。
それきりですれ違うのは、学園ならではの儀礼の簡素さだが、二人の身分の近さと親しさを示すものでもある。
東屋まで来ると、ミハイルは微笑んだ。
「二人とも、お待たせ。それじゃあ、行こうか」
車寄せにはすでに馬車が待っている。ただし、二台だ。
「エカテリーナは先帝陛下と皇太后陛下にお会いするのは初めてだから、少し話しておくことがある。すまないけど、リーディヤは別の馬車へ」
「はい、ミハイル様」
他に皇子殿下への応えがあろうはずはなく、リーディヤはにこやかにうなずく。
そして、エカテリーナはミハイルのエスコートで一台目の皇室の馬車へ、リーディヤは二台目の侯爵家の馬車へ、乗り込んだのであった。
エカテリーナとミハイルは皇国で最も高貴な未婚の男女であるからして、狭い空間で異性と二人きりなど、以ての外である。
なので馬車には、ミハイルの従僕ルカと、エカテリーナのメイドのミナが同乗している。どちらも信頼厚い側仕えだ、聞かれることを気にせず、なんなりと話せる状況である。
「フルールス嬢とセレザール君は、もう離宮に着いているはずだ。手配しておいたから、離宮の劇場で前もって練習もできるはずだよ」
「ようございましたわ。何から何まで、ありがとう存じます」
両陛下の暮らす離宮だから、皇室の馬車で訪れたほうがいろいろ話が早い。ということで、ミハイルが別の馬車をオリガとレナートに使わせてくれたのだった。
ミハイルの言葉に微笑みながらも、エカテリーナはなんだか気が重い。
あー、なんだかな。
リーディヤ、今は一人で馬車の中、どうしているんだろ。ムカついてるんだろうな。
今回、私との一騎討ちと思わせて欺いているから、罪悪感があるんだよね。身分が上で、その身分によりかかった楽勝プランを立てて、お兄様と皇子に協力してもらって、こちらはすごい余裕綽綽。それだけに、妙に気が引けてくる。
この馬車に彼女が同乗してたら、ネタバレしないためにいろいろ面倒くさかっただろうけど。人を騙すわハブにするわって、気分のいいものじゃないよ。
すごく甘っちょろいわ自分。立場が逆だったら、彼女はたぶん、優越感にひたってニッコニコだったと思う。なにより一応これって、ユールノヴァとセレズノアの権力争いの一端だったりするんだよ。なのにハブったから気が重いとか、頭に何のお花を咲かせてんだと。ぬるいわー。アホだわー。
解ってるのに。どーにも、胃の辺りが重いのよ。
あれかな、私は中身アラサーで、あちらはJKだからかな。子供をいびってる気分に、どうしてもなっちゃうのか。
「君は、こういう状況を楽しんだりはしないだろうと思っていたよ」
ミハイルの言葉に、はっとエカテリーナは我に返った。
「申し訳のう存じますわ。わたくしの願いに応じて、セレズノア家に対してお気持ちを示してくださっていますのに」
そう。リーディヤと同乗しないのは、領政への内政干渉を控えねばならない皇室の一員であるミハイルによる、婉曲な意思表示でもある。彼女のやり方を感心しないと思っていることを、言葉にすることなく伝えるためにやっていること。言葉にすれば後戻りができなくなるから、こういう形での意思の表明は政治的に重要。
「わたくし、皇都での社交に馴染んでおりませんの。お恥ずかしいことですわ」
ぬるいこと考えてないでしっかり学んで、これから自分でも、上手にできるようにならなければ。これは高位貴族の、重要なスキルなんだから。頑張らないと。
「いいんじゃないかな。苦手なら、君はあまり慣れなくていいと思う」
そう言われて、エカテリーナは目を見開いた。
「向いていないことで無理をするより、長所を伸ばすほうが得るものが多い場合もあるからね。それに、ユールノヴァには人材が多い。君は思う通りに人と向き合って、そういうことが上手に出来る者と分担する手もあるよ」
「分担……」
目からウロコ。
そ、そうか。今は私は雇用者側。こういうこともある意味、業務と考えて、誰かに仕事として振るっていうやり方もあるのか……。
紫がかった青い目を見張ってまじまじと見つめるエカテリーナに、ミハイルはにこっと笑った。
「どう対応していくかは、これから考えればいいと思う。貴族にも、いろいろなタイプがいるし。僕らはまだ学生で、学びの途中なんだから、これから試行錯誤しても許される。そうだよね?」
あ。それ。
まだ学園で学んでいる身、とかって。前に私がそんなようなこと、言ったんじゃなかったっけ?
やり返されたー!
「まあ、ほほほ!」
手を打って、エカテリーナは笑い出す。
「本当に、仰せの通りですわ!ミハイル様、さすがでいらっしゃいます。人の上に立つ者として、ずっと学んでこられたお方ならではのお言葉ですわ。わたくし、尊敬いたします!」
社畜はすぐ自分でやらなきゃって思っちゃうんだけど、今の立場ではそれじゃ駄目なんだよね。
やだもー、アラサーなのに子供に教えられちゃった。なんて規格外な十六歳なんだ。でも本当に、ずっと人を使う側で、その立場にまっすぐ向き合って帝王学とか学んできた君なればこそ、なんだろうな。
うん、マジで尊敬した。
ミハイルは微笑む。
「君にそんな風に褒めてもらえるのは、すごく嬉しいよ。お互いにまだまだ勉強中の身だから、これからもいろいろ相談し合えるといいね」
「はい、ぜひお願いいたしますわ」
シスコンお兄様は、私にあまりにも過保護な時があるから。今回みたいな貴族の人間関係で、お兄様にはできない相談とかある時、頼らせてもらうかも。
……でもこんなに皇子と仲良くなって、大丈夫かなあ。今でも怖い自分もいるんだけど、なんかもうあまりにグダグダすぎて、気にしても無駄すぎる感がハンパないわ……。