かくして、怒濤の日々が始まった。
怒濤だったのは主に、オリガとレナートだったが。
放課後の空き教室でエカテリーナが歌って聞かせた歌は、レナートにより採用となった。
「品格があって素晴らしい。『ありのまま』は次々に転調する多彩な変化が魅力の一つだけど、お立場からゆったりした古典的な音楽に馴染んでおられる両陛下は、耳慣れなくて戸惑われるような気がしたんだ。これなら新鮮だけど斬新すぎないから、両陛下も心置きなく楽しんで、評価してくださると思う。君の才能は多彩だ、僕ももっと頑張らないと」
私の才能じゃないんだごめんなさい!とエカテリーナが内心で叫んだことは、言うまでもない。
よく考えたら、なぜレナートが採用とか決めるのか謎だが……その場の流れとオリガが頼りに思っている様子から、レナートがオリガのプロデューサーに就任した感じだ。まあ、彼の才能や、リーディヤとの付き合いから得た皇国の音楽事情と皇太后陛下の音楽傾向についての知識から、そのポジションには最適な人材ではある。
オリガも喜んでくれた。さっそく歌を口ずさんで、ちょっと顔色が良くなったほどだ。
「なんて優しくて癒される歌詞なんでしょう。それでいて凛とした感じもあって、勇気をもらえます。音楽神殿で聴いた流行の曲のどれより、新しい感じで素敵ですし……歌わせていただけて嬉しいです!」
前世日本では確か、二十年近く歌い継がれているロングヒットなんですけどね……さらに曲は、百年くらい前に作曲されて、今も世界中で愛されているらしいんですよ……。
でも前世の百年前って、この世界この時代から見ると未来だったわ……そりゃ新しいわ……。
心の中で呟いたエカテリーナである。高校時代、合唱部の顧問が激推しだった曲で、さんざん歌わされたしウンチクを聞かされたものだ。おかげでフルコーラスばっちり記憶にある。勝手にドイツあたりの曲かと思っていたら、作曲家はイギリス人だそうな。
独唱なら広い音域とファルセットが必要な歌なのだが、そこはオリガは問題なしだ。エカテリーナはギリギリ歌えるレベルだった。
「リーディヤお嬢様がいない時を見計らって、一緒に練習しよう」
毎日リーディヤのレッスンに付き合わされているレナートだが、それは学園や侯爵邸での自主練の時であって、声楽教師が付いての本格レッスンの時にはプロのピアニストが伴奏するので、レナートは解放されるのだそうだ。両陛下の前での本番に向けて、リーディヤは平日の放課後でも教師の元へ駆けつけて練習するに違いないので、自由時間はぐっと増えると言う。
「僕が、君の歌声を一番美しく、輝かせてみせる!」
プロデューサー兼鬼コーチが爆誕したらしい。
ミハイルは早速、祖父である先帝ヴァレンティンに手紙を書いて、訪問の許可を取り付けてくれた。退位後、皇都の郊外にある離宮で暮らしている先帝は、権力から遠ざかって隠棲しているゆえに、時間は有り余るほどなのだろう。
セレズノアの領法改定を止めるため、オリガに褒め言葉を賜りたい、という件は婉曲に触れただけだったそうだが、そこはかつての皇帝。意図は十分に伝わったようだ。
そして、了承した旨を婉曲に伝える返事をくれた。
ミハイルが、その先帝からの返事を見せてくれた。先帝陛下の直筆の御返事、に身が震える思いがしたのは、身分制社会が染み付いてきたのか、前世ド庶民ゆえの感覚なのか。
先帝の手蹟は見惚れるほどに美しく、婉曲な了承の言い回しも、ある種の芸術めいたものがある。が、それ以上に気になった一文があった。
『そなたが伴うユールノヴァの令嬢の名は、隠者のごとき我が暮らしの中にも、近頃たびたび聞こえてくる。義兄セルゲイを思わせる活躍ぶりであるとか。早く姿を見たいものだ。そして我が孫ミハイル、そなたの健やかな姿を目にする日を、余の歌姫と共に心待ちにしている』
先帝陛下のところへ私のことが……?どんな話が……?すごく怖い!
でも皇太后陛下のことを『余の歌姫』って書いておられるのは、ほっこりした。恋愛結婚の両陛下、余生を共にしている今も、仲睦まじくあられるんだなあ。
「ね。優しい方だし、セルゲイ公の孫である君を特別に思っておられるから、心配いらないよ」
ミハイルは微笑んだが、トータルでやっぱり緊張して、笑顔が引きつったエカテリーナであった。
そんなこともありつつ、エカテリーナはオリガのフォローに全力を挙げた。
まずは声楽教師のディドナート夫人に手紙を書いて、本番までの週末はすべてユールノヴァ邸に来てオリガの指導をしてくれるよう依頼。
『ミハイル皇子殿下より、先帝陛下皇太后陛下にオリガ様の歌をお聞かせするようお言葉を賜りました。ついては可能な限りのお時間、オリガ様へのご指導のため拙宅にお越しいただきたく。他のレッスンをお断りいただくことで生じる損害は、ユールノヴァ公爵家が全額補償いたします。ただしこの件は、ことが済むまで他言なさらぬようお願いいたします』
自分で書いておいてなんだが、ロイヤルな登場人物だらけの文面に、クラクラしてきたりする。
手紙をミナに託して届けてもらったところ、その場で読んで即決してくれたそうだ。
『オリガ様のそのような栄誉に関われるとは、なんと光栄なことでしょう。オリガ様のため高貴な方々のため、力の限りお役に立ちたく存じます』
ディドナート夫人はなかなか力強い字を書く人だが、この返信の文字は少し震えているようだった。オリガが皇太后陛下のお褒めを賜れば、教師である夫人にとっても名誉である。
またエカテリーナは学園に掛け合って、毎日放課後に、講堂を使う許可を取った。エカテリーナが両陛下に歌を披露することになったので、その練習のため、と言うと許可はすぐに下りた。
音楽室ではなく講堂にしたのは、エカテリーナではなくオリガが練習する姿を、他人に見られないようにするためである。講堂は入学式の会場だったくらいなので無駄に広いが、オーケストラボックスがあってピアノもあるのだ。
レナートは翌日には、楽譜を書き起こしてきた。オリガに合わせて、アレンジまで加えてきた。楽器なしで頭の中だけでアレンジするのに、さすがに朝までかかったらしい。その日の授業、彼はほぼ爆睡であった。
ピアノが弾けるオリガだから、楽譜も読める。レナートやディドナート夫人不在の時でも、自主練習ができるようになった。
他にできることはと考えて、フローラと一緒に喉に良いはちみつジンジャーシロップを作って差し入れたり、これも喉に良いと聞いたタイムの葉でハーブティーを淹れたり、なるべく湿度を上げて喉を保護するようアドバイスしたり。レナートが鬼コーチなら、こちらはマネージャーか付き人と化しつつある。
「エカテリーナ様にそんなことをしていただくなんて……」
最初オリガは小さくなって恐縮したが、エカテリーナは笑って意に介さなかった。
「得をしているのは、わたくしのほうでしてよ。こうしてご一緒していると、オリガ様の素敵な歌声を存分に聴けるのですもの」
お世辞抜きで、オリガの歌声は本当に好きだ。
それにこうしていると、前世の部活の追い込み時期を思い出して、なんだか楽しかったりする。
できればオリガにも、リラックスして歌を楽しんでもらいたい。そう思って、たとえ皇太后陛下からお言葉がなかろうと、オリガが歌手になるならユールノヴァ家で後援する、という話をしてみた。
「そこまで良くしてくださって、本当にありがとうございます。エカテリーナ様のご厚意にお応えできるように、わたし、頑張ります!」
まさかの逆効果!
と思ったが、オリガの顔色はぐっと明るい。
「なんだか、皇太后陛下にお褒めいただくのも、夢ではない気がしてきました。そうなったら、きっとおばあちゃんがすごく喜ぶと思うんです」
オリガの祖母は、皇太后陛下の大ファンだったのだそうだ。
セレズノア領では、皇太后陛下の人気は絶大らしい。特に祖父母の世代では、郷土の誇りであり夢のようなロマンスの主人公として、身分の上下を問わず敬愛されているそうだ。その中でも、祖母はかなり熱烈なファンだったという。
「道ですれ違った人が皇太后陛下のことを話していたのを聞いて、おばあちゃんたら駆け戻って『今の話は本当?』って訊いたことがありました。見ず知らずの人たちだったのに。悪口なんて聞いたら『そんなお方じゃないのに』って泣き出したり」
それは確かに、相当なものかもしれない。
「おばあちゃんも音楽が大好きでしたから。歌が上手で……わたし、おばあちゃん似なんです。きっとおばあちゃんは、見守って応援して、すごく楽しみにしてくれていると思います」
オリガの祖母は、一昨年亡くなったのだそうだ。
「そうでしたの、オリガ様の美声はお祖母様ゆずりでしたのね」
きっとオリガのような小動物タイプの、可愛いおばあちゃんだっただろう。
うちのアレと、えらい違いだわ。
ついついそう思いつつ、微笑んだエカテリーナだった。
週末にはディドナート夫人を迎え、公爵邸でレッスン。技術的な面での指導が中心だ。
マリーナが協力してくれて、クルイモフ家の馬車でオリガと一緒にやってきた。フローラはオリガの存在証明アリバイ作りで、リーディヤの部屋の掃除などを引き受けて学園に残っている。
「素敵な音楽を聴いて、美味しいお茶やお菓子がいただけて、最高ですわ!」
マリーナの言葉はオリガへの気遣いでありつつ、本音でもあるようだ。
が、そこへミハイルもお忍びでやって来たものだから、マリーナは楽しみにしていた菓子が喉を通らない事態となった。イケメン皇子殿下を前にすれば、乙女心は食い気に勝つ。五枚の猫もばっちり装着だ。
入学したばかりの頃のように、カースト上位という感じのキラキラ令嬢になりきっているマリーナのことはそっとしておいて、エカテリーナはミハイルを歓迎した。
「ミハイル様、ようこそ。どうぞおくつろぎくださいまし。お忙しい中お越しいただいて、ありがとう存じますわ」
歓迎の方法が、彼の前に菓子を積み上げることだというのが、大阪のおばちゃん風味かもしれない。
ミハイルは笑った。
「いつもお昼をもらっているから、すごくお腹を空かせているイメージになっちゃったかな」
「食べ盛りでいらっしゃるのですもの、たくさん召し上がれ」
ここで、エカテリーナはピコーン!といいことを思いつく。
「お手数をおかけしたお礼に、週明けのお昼にミハイル様のお好きなものをお作りいたしますわ。食べたいものを、おっしゃってくださいまし」
ミハイルは目を見張った。
「僕の好きなものを、君が作ってくれるの?」
「はい。お兄様のお昼ですから、お兄様がお嫌いなものでなければですけれど」
ブラコンとしてそこは譲れないんで。
エカテリーナの言葉に、やっぱりねと、むしろ安心したようにうなずくミハイルであった。
そしてその後、オリガの歌を聴いて、ほうっと感嘆の息を吐くと力強く拍手した。
「早く先帝陛下と皇太后陛下にお聞かせしたい。喜ぶお顔が楽しみだよ」
リーディヤのほうも日夜レッスンに励んでいると、レナートが教えてくれた。
「ただ、お嬢様はちょっとイライラしてる。お父君、セレズノア侯があまり乗り気ではないらしいんだ」
「まあ、なぜ?」
「わからないけど、体調が悪いのかも。最近、飲むワインの量が減ったらしいし……でもそれより、ユールマグナから何か言われたのかもしれない。あちらもご令嬢のエリザヴェータ様を皇后に据えることを狙っていて、お嬢様は目障りな存在だから」
「それかもしれませんわね」
ユールマグナにとってリーディヤよりももっと目障りであろうご令嬢は、呑気にうなずくのであった。
そんな日々はあっという間に流れ、ついに、両陛下を訪問する日がやって来る。