「エカテリーナ」
ミハイルの言葉に『うっ』となっている妹をどう解釈したのか、アレクセイはエカテリーナがくっついているのとは反対側の手で、心配そうに藍色の髪を撫でた。
「突然、あれほどの観衆を前に演技などすることになったのだから、疲れて当然だ。お前はもともと丈夫ではない、もっと自分を大事にしなければ。一度、寮に戻って休んではどうだ?」
背後でミナがうんうんとうなずいているのが、なんとなく感じとれる。ミナの過保護はやっぱりシスコンウィルス由来、とエカテリーナは結論づけた。
でも、お兄様にもミナにも、気遣ってもらえて嬉しい。……社畜だった前世だと、徹夜明けでもバンバン仕事をふられたものだったし。
「はい、お兄様。一度教室に参りましたら、わたくしは仰せの通り寮へ戻りますわ。着替えをいたしませんと」
戻る、とだけ言って、休むとは言わなかった。だって、衣装を展示するために教室へ戻ることになるのだし。それならせっかくの学園祭、この後は気軽に楽しみたいし。
その微妙な言い回しの意味に、おそらくアレクセイは気付いただろう。しかし微笑んだ。
「いい子だ。……だがその衣装は、お前によく似合っているね。神秘的であり、威厳がある。お前は黒もよく似合う……。
黒い薔薇を創り出すことは、青薔薇に次いで薔薇を愛する人々の夢だそうだ。お前は私の青薔薇だが、世にも美しい黒薔薇でもある。あらゆる人々にとっての、夢の薔薇と言えるだろう」
「お兄様ったら」
いつもの応えを返したものの、エカテリーナはにっこり笑って兄から少し離れると軽く両手を広げ、袖をなびかせてふわりと回って見せた。
炎をイメージしたヒラヒラが、その動きを引き立てる。悪役の衣装はエカテリーナを女王然として見せるから、可愛いよりも優雅に見えた。
「クラスの、衣装担当の方々が縫ってくださいましたのよ。わたくしの代役が決まると、あっという間にサイズを直してくださいましたの。わたくしも、とても素敵なお衣装と思っておりますわ」
エカテリーナがユーリの隣にいる衣装係の女子に笑いかけると、彼女はぱあっと笑顔になった。
悪役令嬢はクラスメイトの婚活を応援します!
女子の隣で、彼女の笑顔にほわほわしているユーリには、気付かないエカテリーナである。恋愛関係は応援すらスキルがない。
「本当に、よく似合うよ。ユールノヴァで開いてくれた宴でも、黒いドレスを着ていたね。今すごく……思い出した」
ミハイルが言う。
そうだった、とエカテリーナも思い出した。ユールノヴァでのミハイル歓迎の宴で着たのは、半袖のボレロに長いリボンがついた、黒を基調にしたドレス。あの時にも、ターンをして見せたような。ミハイルが、思わずといった様子で長いリボンに手を伸ばして……。
リボンが気になるなんて、猫みたいなところがあるんだなあ……と思ったんだったよ。思い出した!
この衣装も、ヒラヒラが気になるのかなあ。いつもわんこ呼ばわりしてるけど、中身はにゃんこなのか。
さきほどの『うっ』はどこかに消えて、安定の残念思考に戻るエカテリーナである。
たまに皇子の頭の上にピンと立った耳が見える気がするけど、あれは実はネコミミ……?ネコミミ付き皇子。はっ、やばい脳内映像が可愛い!猫しっぽが生えてる!
思わず笑いそうになって、エカテリーナは顔をそむけた。
しかし実はそのタイミングで、ルカがミハイルの肘をつついていたりする。
(もうひと押し)
(夢の薔薇とか、あんなの言えるか!)
青少年ミハイルを阻む壁は、エベレストよりも『神々の山嶺』の頂上よりも高いのだった。
そんな様子を静かに見ているのは、ユールノヴァ公爵家の幹部たち。
特にノヴァクだ。彼は、エカテリーナとアレクセイの祖父セルゲイに取り立てられた、老練な側近。国政を担ったセルゲイの影響で、主家ユールノヴァ公爵家だけでなく、祖国ユールグラン皇国にも、厚い忠誠心を抱いている。ノヴァクはお嬢様と皇子の親しげな姿に、何かを思うようだった。
そこへ、声がかかった。
「ミ……ミハイル様」
ん?
思いがけない所から呼びかけが聞こえて、エカテリーナは視線を下げた。
そして驚く。
わっ、すっごい可愛い子が!
背中に翼があったら天使。背中に翅があったら妖精。天使でも妖精でもないとしたら、超高級品のお人形さんみたい!
年の頃は十歳くらいだろうか。
ゆるふわなウェーブがかかった長い髪は、青みがかったラベンダー色。その髪に縁取られた小さな顔は、透き通るような色白だ。瞳は、綺麗な青紫色。
顔立ちは、とにかく綺麗だった。こぼれ落ちそうな大きな目は、くっきりとした二重。小ぶりな鼻と唇は完璧な形。ふっくらした頬があどけない。
少しだけ残念なのは、着ているドレスがシンプルなことか。上質なのは一目で判るが、妙に地味というか、大人っぽいデザインだ。こんな可愛い子なら、フリルとリボンとレースが盛り盛りのドレスが、さぞ似合うだろうに。
お願いそういうのを着て!
あまりの可愛さに、見知らぬ少女に内心で懇願してしまったエカテリーナだが、ようやく気付く。少女は、スカートをぎゅっと握りしめて、ひたむきにミハイルを見つめていた。
「……エリザヴェータ」
ミハイルが呟く。
その名前に思い当たるまで、少し時間がかかった。目の前の天使は、いつの間にか抱いていたイメージと、ずいぶん違っていたので。
エリザヴェータという名の、十歳の少女。
皇子ミハイルを、名前で呼んだ……。
「久しぶりだ。相変わらず可愛いね」
ミハイルが優しく言う。皇子ミハイルに声をかけるのはマナー違反ではあるが、相手が社交界デビューもしていない子供なら、咎めるほうが野暮と見なされる。なによりすでに本人が、思わず声をかけてしまった非礼にすくんで震えているようだったので。
その言葉にエリザヴェータは微笑んだが、少し複雑そうな表情に見えた。
そんなエリザヴェータからエカテリーナに、ミハイルは視線を移す。
「君たちは初対面だよね。紹介しよう。
エリザヴェータ、君もきっとさっきの劇を見ただろうから、もう知っているだろうけど……こちらはエカテリーナ・ユールノヴァ。エカテリーナ、こちらはエリザヴェータ・ユールマグナ。ウラジーミルの妹だよ」