252. 天才の辞書に緊張の文字はないらしい

「楽しいね、あれは!」

舞台袖に引っ込んだとたん、レナートが笑った。

手の一振りで閃光が疾る、あの演出が気に入ったらしい。稽古でも何度も合わせてきたはずだが、本番は格別なのだろう。男子というのはどこの世界でも、ああいうものに心をくすぐられる生き物なのだろうか。

楽しむ余裕があるとはうらやましい……という思いで、エカテリーナは尋ねてみた。

「レナート様は、緊張なさいませんでしたの?」

「緊張?なんだろう、それは」

美少年レナートは、可愛らしく小首を傾げて見せる。

それから、にやっと笑った。

エカテリーナも、少しだけ微笑む。

前世風に言うなら、緊張?なにそれ、おいしいの?ってやつだよね。

そういえば彼は、先帝皇太后両陛下の前で演奏した時も、そのあと歓談した時も、少しも緊張した風ではなかった。さすが、神に選ばれし天才。

「心強う存じますわ。これからの一幕、主役は貴方様。良き音楽を求めてお越しのお客様方を、堪能させてくださいますわね」

「もちろん。任せてくれ」

聖女とそのお供たちがいったん退き、舞台は空になっている。

客席からは、ざわざわと話し声が上がっていた。興奮気味に語られているのは、光の魔力による演出が戦闘シーンに加えた迫力に感じた、驚きと感動が主なようだ。

もちろん、注目の公爵令嬢、エカテリーナについて語る者もいる。しかしその場合、声音には笑いが交じるようだ。もしくは男性同士でこそこそと、なんらかの感想を語り合うか。インパクト抜群の登場だったゆえ、仕方がないと言えようが、アレクセイの側近たちは閣下の耳に入らないかとひやひやする羽目になった。

幸い、アレクセイは本人とかけ離れた役を演じなければならないエカテリーナへの心配で、周囲の声など耳に入らないようだが。

「あのような、心にもない言葉を口にしなければならないとは……あの子はさぞ、心を痛めていることだろう」

妹を心配するあまり、そして観劇に慣れていないせいで、虚構と現実が若干ごっちゃになっているかもしれない。アレクセイが呟いた言葉に安心と心配を同時に味わいながら、ひとまず周囲の会話を胸に刻んで、発言者が判る場合は後で思い知らせてやろうと思う側近たち(特にアーロンとハリル)であった。

そして、アレクセイたちに近いとある席では、こんな会話が交わされていた。

「殿下、大丈夫ですか?」

「今ちょっと、感情をどこへ持っていったらいいか解らない……!」

舞台にレナートが登場したのは、そんな中である。

あわてて観客たちが私語を止め、観客席には無言の熱気が満ちた。

レナートも、今は学園の有名人だ。一時は彼とオリガの顔を見ようと教室の窓に生徒が鈴なりになったくらいだから、学園関係者に彼の顔を知らない者はいない。美少年だけに、ファンも多いようだ。

つかつかと舞台を進んだレナートは、舞台の端の小階段までくると、なんとそのまま舞台から降りてしまった。客席が戸惑ったようにざわめくが、音響係が叩く太鼓などが置かれたオーケストラボックスを迷いなく歩いて、ピアノの前へ至る。

どおっ!と観客席がどよめく中、彼はピアノの蓋を開け、椅子に座った。

本来は、オリガの伴奏としてレナートが弾くのは、リュートという弦楽器の予定だった。マンドリンや和楽器の琵琶に似た、洋梨を半分に割ったような形をしているのだが、エカテリーナのおぼろげな記憶では、前世でも中世から近世のどのへんかまでヨーロッパでよく演奏された、ギターのご先祖にあたる楽器だった気がする。それなら舞台の上でも弾けるので、物語上の不自然がないということでチョイスしていた。

けれど突然、オリガが不在となった。リュートの音色は繊細で優雅な美しいものだが、大きな音は出しにくい。オリガの歌声に添えるなら問題ないが、なんとか歌えるレベルのエカテリーナでは、もっとしっかりと支えられる楽器での伴奏が望ましい。ぶっちゃけ、なにか失敗してもそれをフォローできるというか、ごまかせる楽器が望ましい。

そして、音楽神に選ばれた天才音楽家の音楽を楽しみに来場した観客には、期待に応える音楽を聴いてもらいたい。

だから楽器はピアノに変えると、言い出したのはレナートだった。一番得意だからと。

それで、劇の最中に役者がオーケストラボックスに降りるという、シュールな光景が生まれることになった。

つまりレナートは、これからソロの演奏をする。ぶっつけ本番で。

それなのに、緊張なにそれ、と言ってのけた彼。

その手が鍵盤に置かれ、軽やかに動き出した。

流れ出した音色は、明るく楽しげだ。

レナートの役は、人々を苦しめる悪役令嬢の側近。それがそんな曲を弾き始めたのだから、観客たちは不思議そうな顔をした。けれどすぐに、曲に引き込まれていく。

軽やかに、音そのものが弾むよう。夢と希望に満ちあふれ、初夏の日差しのように輝いている。かと思えば、夢見るように優しい、愛しげな旋律へ。あるいは凛として気高い旋律と、変化しながらも曲は、ひたすらに美しい。

うっとりと、観衆、いや聴衆は、心地良い音色に身を委ねていた。

それが――突然、崩壊する。

一瞬の休符の後、レナートは鍵盤に指を叩き付けて大音響を発した。

そこからは、まるで暗黒の嵐。目まぐるしい速さで指が鍵盤を駆け巡り、低く、暗く、重い音を、降り注ぐように叩き出す。時には悲鳴のような炸裂音さえ混じった。まるで神の怒りのよう、天が下した災いのようだ。

聴衆は驚き、手を握りしめ、恐れるように身を竦めた。

そこから、また曲調は変わる。ゆっくりとした、もの悲しい調べ。

足を引きずって闇の中を歩くような、陰鬱な。

曲の始まりにあった、希望はいずこへ。夢は、愛は、気高さは、いずこへ。

それらは……消え果ててしまって、還らない。

まだ、聴衆には、知り得ないことであったが。

レナートは、悪役令嬢と彼女が率いる人々に起きた出来事を、曲に込めて弾いていた。平和な国が突然の噴火により崩壊し、人々が流浪の民となって彷徨うこととなった、悲劇の運命を。

劇に参加する中で、曲の構想は芽生えていたのだろう。ほぼ完成していたのかもしれない。しかしそれを、この状況で、満場の聴衆の前で演奏する。

そして感動させる。

その才能。

救いのない悲しみのまま、レナートが最後の一音を弾き終えた時。

彼の周りに、音楽神の祝福、五色の光がきらめいた。

すっかり曲に引き込まれていた聴衆は、神の祝福を目の当たりにして歓声を上げ、拍手喝采する。

けれどレナートはそれに応じることなく、舞台へと目を向けた。

聴衆はその視線を追う。

そこには黒い炎の衣装をまとった美貌の少女、かの公爵令嬢演じる、悪役令嬢が立っていたのだった

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