「お嬢様、ディドナート夫人がお見えになりました」
「ありがとうグラハム、音楽室へお通ししてちょうだい」
「かしこまりました」
執事のグラハムが微笑んで、端正な銀髪の頭を下げた。
「お嬢様、お久しゅうございます」
「ディドナート夫人、ようこそ」
微笑むエカテリーナに、夫人は恐縮した表情だ。
「わたくしの都合でたびたびレッスンの予定を変更させていただき、申し訳ございませんでした」
オリガが音楽神の招きを受けて音楽神殿入りしたことで、彼女を指導したディドナート夫人の、声楽教師としての株が爆上がりしたらしい。指導してほしいという依頼が殺到して、大変なことになってしまったのだ。
指導したといっても正式なものではないのに、なぜ解るのか不思議……と思うエカテリーナだが、オリガを支援したのがエカテリーナであることは知られているし、あの当時ディドナート夫人が他のレッスンを断って最大限の時間を割いてくれていたことなどから、解る人には解ってしまうのだろう。
「夫人のご指導が評価されること、わたくしも喜ばしく思っておりますのよ。こちらこそ、趣味でしかないわたくしの指導を続けていただくこと、心苦しい思いですの」
今、ディドナート夫人にレッスンを依頼してきているのは、本気で音楽家を目指す才能あふれる人々だろう。そういう生徒を教えるほうが、夫人もやりがいがあるに違いない。
なんなら夫人のレッスンを解約して他の声楽教師を探してもいい、とエカテリーナは思ったのだが。
――グラハムに止められた。
「そのような……高貴なるユールノヴァ公爵家のお嬢様をお教えできる名誉、光栄に思っております」
ディドナート夫人が急いで言う。そう、どんなに声楽教師として名声を得ても、皇国有数の名家であるユールノヴァ公爵家に出入りしている、というのはまた別の価値になる。
急に評価が上がると、同業者から妬みややっかみを買うものだ。嫌がらせをされたりする恐れは充分ある。公爵家との繋がりは、そういう危険を回避する護符になり得るだろう。
そしてユールノヴァ公爵家にとっても、ディドナート夫人はそう簡単に替えがきく人物ではなかった。声楽教師としての実力もさることながら、妙な筋との繋がりがなく身辺がきれいなのだから。
エカテリーナが声楽を習いたいと言ってから、教師が見つかるまでやけに時間がかかったのは、身辺調査をがっつりしていたからだったようだ。
『あちらは音楽には強い影響力はお持ちではありませんが、万一ということはございますので』
グラハムはさらりと言っていたが、その時エカテリーナはなかなかの衝撃を受けた。ユールノヴァと同等の格の相手、ユールマグナ公爵家と敵対している以上、ここまで警戒するのも大袈裟なことではないのだ。
エカテリーナを指導する人物が「あちら」の回し者だったりしたら……ユールノヴァ家のお嬢様の身に、大変な危険が生じることになる。
エカテリーナが皇都に来たばかりの頃は、マグナの分家の出身であるマルドゥ先生が家庭教師に加わっていたけれど。当時はそこまで両家の対立がはっきりしていなかったのか、当時と今とでエカテリーナの存在の重みが変わったのか、その両方なのかだろう。
ともあれ、大貴族同士が敵対することの闇の深さを、垣間見た瞬間だった。
「それにお嬢様の楽曲は、新鮮で素晴らしいですわ。わたくしはアストラで音楽を学びましたが、あちらでも耳にしたことのない曲調……あちらの友人に教えれば、さぞ感心することでしょう」
ディドナート夫人が言う。
彼女が言うアストラは、現在の都市国家アストラだ。今も周辺都市同士での戦乱が続いているが、芸術関係は発達していて、音楽も盛ん。ディドナートという名字は皇国風でなくアストラ風、彼女があちらで結婚した夫の家名だ。それが声楽家としての活動に有利に働くほど、アストラの芸術関係の名声は高いのだった。
「わたくしの曲ではございませんのよ、どこかで耳にした曲ですの。そのようなものをお知らせになっては、夫人の名声の傷にもなりかねませんわ。内輪のことにお収めくださいまし」
お願いだから広めないでください、をお嬢様言葉に変換してエカテリーナは言う。
学園内ではすっかり流行ってしまったので、さらに広まってしまうのは時間の問題……というかすでに広まりつつある気がするけれど、他国にまで知らせるのはさすがに勘弁してほしい。
「それより、また別の曲についてご相談しとうございますの。学園祭で歌劇を行うことになりましたので、どのように演出すべきかレナート様……セレザール様と思案しておりますのよ」
「まあ、歌劇を……」
本職だけに、ディドナート夫人が目を輝かせる。
あわてて、エカテリーナは否定するように手を振った。
「学生の遊びに過ぎませんわ。一流の歌手でいらした夫人に歌劇などと申し上げて、笑われてしまいますわね」
「ほほほ、どうでしょう」
ディドナート夫人の笑いは意味深だ。
いやマジで高校時代の文化祭と一緒ですから!劇のシナリオ、めっちゃ適当ですから!
などと言ってももはや信じてもらえない身の上であることに、まだ気付いていないエカテリーナである。
「今回はオリガ様にここへいらしていただくことはできませんの、神殿へ入られましたので。ですからわたくし、遅ればせながらレッスンに身を入れたいと存じます。そして夫人のご経験から学んで、学園での催しをより良いものにできれば嬉しゅうございますわ」
音楽神殿の全面的バックアップを得たオリガなので、エカテリーナが支援する必要はもうない。音楽神殿の神官たちは、良い音楽に接したくて神殿入りした人々なので、いろいろ精鋭ぞろいであるらしい。
なのでエカテリーナは、自分の声楽レッスンを再始動することにしたのだ。
もともと、体力がつく習い事がしたいと声楽を習おうとしたのに、なんだかんだで自分が習うのはそっちのけになってしまっていた。そろそろちゃんと声楽を学びつつ、ディドナート夫人の経験から歌劇の曲を舞台で歌う場合のポイントなどを教えてもらおうと思うエカテリーナである。
「承知いたしました。楽譜を拝見します」
期待が隠せない様子で、ディドナート夫人はレナートが採譜してくれた楽譜に目を通し始めた。
ところで、エカテリーナが忘れていたことがある。
ディドナート夫人の教え方はなかなかにSなのだ。