222. ユールセイン邸からの帰路

「……近頃、お前は少し、忙し過ぎるのではないかな」

ユールセイン邸からの帰りの馬車の中で、アレクセイにそう言われてエカテリーナは目を見開いた。

いつも自分が言っていたのに、兄から忙し過ぎる返しをされてしまうとは。

「そのようなこと。お兄様に比べれば、わたくしなど忙しいと言えるほどのことは、何もございませんわ」

「私は慣れている。周囲の体制も整っているから、お前が心配してくれるほどのことはないんだよ。なにより、体力が違う。

だがお前は」

アレクセイはつと手を伸ばし、エカテリーナの藍色の髪を撫でた。

「学園では勉学に励み、友人の為に心を砕き、家では慣れない女主人の役目を学びながら、ガラス工房という新たな仕事を自分で創り上げている。しかも、斬新な商品で新たな販路を切り開いているのだから、たやすいことではないはずだ。それになんといっても、お前はか弱い淑女なのだから。見ていて心配でならない」

「お兄様ったら」

エカテリーナは微笑む。

「わたくしとて、己れの限界くらい、わきまえておりましてよ」

なにしろ私。

過労死、経験してますから!

内心で若干ドヤるエカテリーナである。

どれだけ働いたら死ぬか実地に体験しているわけで、そこは越えてはならないってこの上なく理解していますよ。

そこから考えれば、今なんてどーってことないです。単なる充実した毎日です。

などと、基準がおかしい社畜は思う。死んでも社畜が治らない。

「わたくしにとっては、楽しいばかりですわ。先ほども、ドミトリーおじさまと嬉しいひとときを過ごせましたもの。

きっと本来であれば、わたくしはただ同世代の令嬢の皆様と、身分にふさわしい社交に励むべきなのですわね。ですけれど、わたくしにとっては同世代との社交も、未知の世界。むしろ社交のほうが、馴染みなく恐ろしげに思えるほどですのよ。

だって、工房のお仕事なら、こうしてお兄様とご一緒することができるのですもの。わたくしは安心して、ただ嬉しく楽しく、過ごすことができておりますのよ」

にっこり笑うと、アレクセイはまぶしげに妹を見た。

「エカテリーナ」

手を取って、そっと握る。

「お前は常に優しく賢明だ。そして、ユールノヴァの女主人にふさわしい責任感と矜持を持っている。お前という妹がいてくれて、私は幸せだよ。

だからこそ、お前を案じずにはいられない。万が一にも、お前を失いたくはないんだ。約束しておくれ、これ以上役割を増やすことはしないと」

「はい。お兄様がそうお望みでしたら、わたくしはすべて仰せの通りにいたしますわ」

お兄様ったら、つくづく、シスコンなんだから。

ガラス工房のお仕事なんて、お願いしたらいろんな人が助けてくれて、やりたいことを実現してくれるんですから。私は全然、お仕事をしているなんて言えないです。

前世なんて、この炎上プロジェクトを完遂する策はこれしかない!って状況でも、駆けずり回って根回しして、クライアントの承認会議の前に現場責任者に何度もレビューして、さらにその直属の上司に事前レビューして、さらにさらにクライアントの部長や役員の時間をもぎ取って事前説明して、字のフォントが小さいとかしょーもない指摘くらって必死で資料を直して、あげくに承認会議で部長や役員のその場の思いつきの一言で全部ひっくり返されて血反吐を吐く、なんてことが何度もあったもんです。

仕事は会議室じゃなく現場にあるんだぞー!資料作成と会議の前の根回し会議ばっかりに時間取らせてないで、システム作らせろバカヤロー!プロジェクトがコケるかどうかの瀬戸際だってのに何やってんだー!

……思い出すと今でも血反吐を吐きそうになるからやめよう。

だから、今生はただただ幸せですよ!

上司は超有能お兄様。側近の皆さんも超有能。一言言えば話が通じて、なんなら私を置き去りにはるか先まで手配が済んでいたりするんですから。

……いや置き去りにされてちゃダメだろ自分。

とにかく四百年の歴史ある名家だっていうのに、決断が早い、フットワークが軽い。前世の大企業病でお役所仕事なクライアントに、爪の垢煎じて飲ませてやりたいくらいですよ。こんな人たちにがっつりフォローしてもらえる……ここには幸せしかない。

だから、私が忙しすぎるなんて、心配してくださることはないんです。

他に役割を増やさないように、でしたっけ。

それはもう。ガラス工房を買ってもらうことになったのは、ものすごくイレギュラーな流れででしたから。それが思いがけないほど好調で、人に任せられないほどの上顧客から相次いで注文を受けることになったのは、レフ君という天才がいたおかげ。

そんなイレギュラー大当たり、そうそう発生しませんから。

あとは一人の学生として学園生活を楽しんで過ごして……えっと、どうなるかわからない破滅フラグはまだ怖いですけど……。

とにかく、私は今生では過労死フラグは心配無用です。経験者ですから!

それを心配しないといけないのは、どう考えてもお兄様です。業務の範囲が桁違いなんですから。

私は絶対に、お兄様を過労死フラグから守ってみせます!

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