オリガとレナートのことを気にして舞台を振り返るエカテリーナに、皇太后が微笑む。
「音楽神様は『今一度』と仰せでした。あの者たちだけでなく、そなたのあの曲もお気に召したのでしょう。曲をお聞かせすれば、ここへ帰してくださいますよ。ずっとあの二人をお側に置かれるおつもりではないはず」
「お教えありがとう存じますわ、安心いたしました」
経験者は語る、であるから、間違いないだろう。ほっとして、エカテリーナは皇太后に笑顔を返した。
「よい曲でした。旋律も歌詞も奥深く、味わい深い。そなたの才能も素晴らしいと思いますよ」
あああ。
私の才能とかでは全然ないんですうう!
「い、いえ。実は、セレザール様にいろいろ直していただいたのですわ。わたくしの才能などでは……」
おほほ、と笑ってごまかすエカテリーナに温かい視線を注いだ皇太后は、ふと表情をあらためる。
「エカテリーナ……あの娘、オリガといいましたか。あの者の縁者に、イリーナという名前の者はおりませんか」
思いがけない言葉に、エカテリーナは目を見張った。首を横に振る。
「申し訳ございません、わたくし、オリガ様のご親戚について、詳しくは存じ上げませんの……」
「そう。突然尋ねて、驚かせてしまいましたね。気にしないでおくれ」
皇太后に従って貴賓席に戻ると、先帝とミハイルが微笑んで迎えてくれた。
しばらく二人きりだったはずだけど、祖父と孫で何の話をしていたんだろう。そう気にしながらも、席につく前にエカテリーナは両陛下とミハイルに礼をとる。
「先ほどお許しも得ず席を離れましたこと、心よりお詫び申し上げます。両陛下の御前でこのような無礼……お恥ずかしい限りにございます」
「よい。リーディヤは皇太后の親族であり、この離宮にもたびたび訪れてくれた娘ゆえ、そなたの対応を嬉しく思っておる。そもそも内輪の席だ、気楽にせよ」
先帝ヴァレンティンが微笑んだ。
「だが、礼儀正しいのはよいことだ。そういうところは、そなたはアレクセイと似ておるのだな」
わーいお兄様と似てるって言われたー!
常時ブラコンのエカテリーナは、あっさり浮かれる。
お兄様、公爵を継承する前は、ここで先帝陛下に時々会っていたのかな。いや、お祖父様が亡くなってからは、基本的にはユールノヴァ領で仕事をしていたはず。お祖父様がまだ生きていた頃に、まだ皇帝だった陛下に会っていたんだろう。
お兄様はその当時から、本当に子供?とか思われるような、大人顔負けな言動をしていたんだろうな。可愛かっただろうなー。ふふ、見たい。
「そなたとアレクセイは、離れて育ったと聞いておるが……」
先帝の声音に、憂わしげな響きが混じる。エカテリーナは思わずミハイルに目をやった。
君、何をお話ししたの?
ミハイルはただ、穏やかに微笑みを返す。
どう応えるか少し悩み、エカテリーナは口を開いた。
「はい、離れて育ちましたので、今は共に暮らすことができて幸せにございます」
無難な返答ができたと思ったが、先帝は沈黙している。と、深いため息をついた。
「最後にアレクサンドルに会うた時、義兄セルゲイ亡き今そなたが妻子をしかと守るようにと、申し付けたのであったが……余は、ユールノヴァの内向きのことには、干渉できなんだ」
その呟きに、エカテリーナは目を見張る。
先帝陛下、お母様と私やお兄様のこと、気にかけてくれていたのか。親父と最後に会った時ということは、譲位してこの離宮へ移る直前のことかな。譲位した後は、公爵である親父と会うことはなかったはずだから。
ほんとにね……親父がその言葉に従っていれば。
お祖父様がご存命のうちは、お母様と私の暮らしはそう悪くはなかった。とはいえお母様は私とずっと公爵領の別邸にいたから、本来は夫と共にいるべき公爵夫人が人前に現れないことは、噂(スキャンダル)だったに違いない。
暮らしが本当に悲惨になったのは、お祖父様の没後しばらくしてから。その頃には先帝陛下はここで隠棲していて、有力貴族と会うこともなくなっていたから、そんなことは知るよしもなかっただろう。
そもそも、家庭内での虐待は外部からの干渉が難しい。それは、二十一世紀の日本でも同じだった。お祖父様がご存命の頃に、お母様が親父に見切りをつけていれば変わっていただろうけど……お母様はずっと親父に恋していて、親父から離れようとはしなかったから、誰であろうと助けることはできなかったはず。
一番悪いのは親父より祖母なんですけどね。実の姉があそこまで悪辣な真似をしていたなんて知ったら、陛下はショックを受けちゃうだろうな。
でも先帝陛下は、祖母よりセルゲイお祖父様の方を慕っていたみたいだった。お祖父様が亡くなってすぐ、お祖父様の愛馬ゼフィロスが殺され、それを反省する様子もなかった祖母ババア……退位後はほとんど交渉がなかったのかも。
「陛下にそのようにお気に留めていただき、恐悦至極に存じます。……わたくしは今は、本当に幸せでございますわ」
先帝はうなずいた。
「優しい娘だ。今度の訪問も、友人のためであったな。才能ある人間を見出し育てることを楽しむ姿、義兄セルゲイによく似ておる。懐かしいことだ……これからも、いつなりと訪ねて来てもらいたい。セルゲイに代わって、余がそなたの幸せを願っていることを、心に留めておくがよい」
「温かいお言葉、ありがとう存じます」
頭を下げて、エカテリーナはちらりとミハイルに目をやった。
君、陛下に何を話したの?君は本当に聡いから、ユールノヴァ領で思った以上にいろいろ気付いちゃってたのかな。
エカテリーナと目を合わせたミハイルが、小声で言った。
「さっき……君が行ってしまうかと思った。怖かったよ」
……。
……。
……。
ななな、なんだろう、この感じ。
はっ!そうか、そりゃそうだ!私がここから突然消えたりしたら、シスコンお兄様がどんな暴発をすることか!そりゃ怖いよね!
何かから全力で目をそらすエカテリーナである。まあアレクセイの暴発は、かなり確度が高いと言えるが。
ともあれエカテリーナは言葉を返すこともできず、ひたすらおろおろと目を泳がせている。
ミハイルはそんなエカテリーナを、苦笑しつつも優しく見ている。
そして孫世代のそんなやりとりを、先帝と皇太后がほのぼのとしたまなざしで見守っていたのだった。
着替えを終えたリーディヤが戻って来た時には、エカテリーナはなにやらほっとしてしまった。
皇太后の昔の服を借りたそうだが、シンプルで上質なドレスは、先ほどまで着ていたものよりリーディヤに似合っているようだ。
「わたくしの若い頃を見るようだこと。リーディヤ、その衣装はそなたにあげましょうね」
皇太后は優しく言った。
リーディヤのほうは、賜り物の礼を言い先程取り乱したことを詫びて席に着いた後は、伏し目がちで人形のようにおとなしくしている。ただ時々、ちらとエカテリーナを盗み見ているようだった。
怒りや憎しみの視線ではなさそうで、エカテリーナは安堵しつつも、どうするか悩む。こちらからリーディヤに声をかけるべきか、なんと言って声をかけるべきか、励ますならやっぱり日めくりカレンダーを召喚するべきか。
アホな方向に思考が迷走しかけた時。
舞台に、五彩の光が湧き上がった。
光は珠になり、大きく膨れ上がる。大人の一抱え……いや、もっと大きく。
そして、弾けた。
乱舞する色と光。それが薄れると、舞台にはオリガとレナートが戻っていた。